「辛い」を「楽しい」に変えていく!多胎育児の体験記

2021年12月8日

子育て

毎晩夫婦で協力して乗りきる!双子の授乳

我が家の双子の娘達は30週の早産で、極低出生体重児(1500ℊ以下)として産まれました。
一卵性双生児の女の子が2人です。
幸い後遺症や合併症はなく、経過観察と体重増加のために約2カ月NICU・GCUに入院した後、無事に帰宅できました。
娘達の入院期間中、毎日昼夜を問わず3時間ごとに搾乳して、毎日娘たちの面会に通っていたため、すでに私は寝不足状態でした。
双子の妊娠に伴う切迫早産で1カ月管理入院をしていた経緯もあり、ほんの少し道を歩くだけで息切れをするくらい体力も低下していました。
しかし、同じ顔の新生児がおそろいのロンパースを着て、ちょこんと寝転んでいる姿は控えめに言って可愛すぎました。
娘達はまだあまり目が見えていないだろうに、お互いの存在が気になるようでした。
少し離れた距離にいても終始もぞもぞと動いて、結局ぴったり寄り添いあっていました。
離しても離しても近寄っていくのです。
双子ならではのその愛くるしさは、眠気や疲れが一気に吹き飛んでしまうほどでした。
しかし、私はまだ多胎育児の授乳のリアルな壮絶さに気づいていませんでした。
長男を完全母乳で育てていたため、双子も完全母乳で大丈夫だろうと考えていたのです。
2カ月3時間おきに搾乳するのは手間だったけれど、直接飲んでくれるなら楽に違いないと期待を寄せていました。
なにより、授乳中の赤ちゃん独特のぷっくりしたほっぺや、幸せそうにとろんとした目、きゅっと握りしめた小さな掌など、またあの可愛さを堪能したい気持ちもありました。
通常、双子の授乳は順番に授乳させるか、タンデム授乳といって二人同時に授乳させる方法があります。
両脇にそれぞれ赤ちゃんを抱えて授乳するのですが、片手で赤ちゃんの頭を支えなければなりません。
「双子の育児書で読んだタンデム授乳ならいっぺんに済んで楽なのでは…」と安易に思っていた私は即座に考えを改める羽目になりました。
首の座らない新生児を二人同時に抱えて授乳するのはどうにも難しく、小柄な私には合いませんでした。
それならば交互に授乳しようとい意気込んだところ、当然空腹の片方はギャン泣き。
飲んでいるほうも、片側だけの授乳では飲み足りないらしく、ミルクを足してもらえるまでギャン泣き。
とてもではありませんが、授乳中の新生児の可愛さを堪能するどころではありません。
ミルクもお湯を入れて飲み頃になるまで冷やすのに、どうしても時間がかかってしまいます。
長男の育児経験があっても、ミルクはつくり慣れていないのでモタモタ…。
その間、二人でギャン泣きのオーケストラです。
どんなにあれやこれやと頑張ってみても、泣かれてしまいます。
赤ちゃんが一人泣いていてもかなりのボリュームで疲弊してしまうのに、双子はそのボリュームが2倍の大音量。
昼夜を問わずその調子なので、娘たちが寝静まっていても泣き声の幻聴がするほどでした。
当時、夫婦そろって連日ほぼ徹夜でした。
毎日クマでげっそりやつれたお互いの顔を見て笑いました。
笑わなければやっていられない、ちょっとおかしな精神状態だったのでしょう。
今思えば、疲れすぎて脳内麻薬のような物質が出て、感覚が麻痺していたのかもしれません。
夜が明けるのが怖くて仕方ありませんでした。
朝になったら夫は出勤して、私はギャン泣きオーケストラの娘たちと3人で過ごさなければならないのです。
相談できる相手もおらず、ひたすらに耐えて耐えて耐え抜く生活をしばらく続けました。
離乳食が始まって授乳量が減れば、楽になれるはずだと頑なに信じていました。
しかし、待てど暮らせど時間が一向に立ちません。
毎日、じわじわと時間が過ぎていきました。
このまま半年耐え抜けるとは到底思えないほど、私たち夫婦は疲弊しきっていました。
そうして、ある日唐突に私は気が付いたのです。
「これ以上無理して頑張っても夫婦共倒れになる」と。
特に夫は車通勤でしたので、寝不足による事故が心配でした。
「完全母乳は諦めて、今後は粉ミルク寄りの混合に切り替えよう」と、私は自分のこだわりを捨てることにしました。
藁にもすがる思いで調べてみたところ、どうやら粉ミルクは作り置きして冷蔵保存できるという情報がありました。
WHOのガイドラインにも、1日までなら冷蔵保存可能とのこと。
ミルクを作って飲ませるまで時間がかかるなら、いっそ作り置きしてしまおうと私は決意しました。
そこで毎日、起床時と就寝時の1日2回、数本ミルクを作って冷蔵庫へ入れておくことに。
さすがに家庭の冷蔵庫でまる1日保存するのは雑菌の繁殖や品質の劣化が怖く感じました。
いくら何事もなく退院できたとはいえ、娘たちは極低出生体重児なので、普通に生まれた子より弱い部分がありました。
低体重児はRSウィルス感染症の重症化リスクを予防する注射を打たなければなりませんでした。
せっかく順調に増えてきている体重も、体調を崩してミルクを飲めなくなってしまっては困ります。
私が負担に感じず、衛生面の心配をせずに済む妥協のラインが1日2回でした。
完全母乳をすっぱり諦めてからは、基本的に粉ミルクを飲ませて、授乳はコミュニケーションの一環で、「少し粉ミルク代が浮けばいいか」ぐらいの気持ちで過ごすことにしました。
双子にミルクを飲ませる場合、片方の子をお母さんが抱っこして、もう片方の子の口に哺乳瓶を入れたままにしているお母さんもいるそうですが、私は誤嚥や窒息が心配だったのでできませんでした。
大抵同じタイミングで空腹を訴えてぐずることが多かったので、片方ずつ抱っこして飲ませてゲップさせて…という一連の流れを順番にこなしていました。
昼間は私一人で対応しなければならないので当然ギャン泣きされました。
それでも以前より手早くミルクを飲ませられるようになったので、だいぶ気持ちが楽でした。
粉ミルクだと腹持ちが良いですし、ギャン泣きする時間がかなり短くなったお陰で、夜もだんだん眠れるように。
気づいたら3時間寝れていたなんてこともありました。
自分のこだわりを重視した育児より、余裕を持った育児に切り替えたお陰で、私はだいぶ楽になりました。
娘たちの授乳の様子をじっくり見て、その可愛らしさにほっと癒されるひと時も生まれました。
夜間はまさに夫婦共同作業。
小さくぐずる声が耳に入った瞬間、私は冷蔵庫へ走って粉ミルクを電子レンジに押し込み、温まるのを待つ間、夫と眠い目をこすりながら娘たちをあやしました。
一通りミルクを飲み終え、お腹いっぱいになった娘たちが、すやすやと寝息を立てながら眠る顔を見るのはなんとも幸せでした。
やっと寝付いてくれた娘たちを起こさないように、「可愛いね」とささやき声で会話した後、夫と私は失神するように眠りにつく日々。
使用済みの哺乳瓶を洗って消毒する余力はなかったので、朝起きてからすべてを済ませることにしていました。
この頃の私は朝が来ても、もう憂鬱な気持ちにはなりませんでした。
多胎育児は情報も少なく、実際の体験談を語り合えるような仲間も周囲にいません。
ママ友を作る余裕なんてなく、ひたすら家の中で育児に取り組みました。
しかし、もしママ友を作っていたとしても話が合わなかったことでしょう。
「タンデム授乳に失敗して毎日ギャン泣きされて夫婦で徹夜してるんだけどどうしたらいいかな?」なんて相談されても、恐らく困惑してしまうと思います。
多胎育児の授乳は、まさに夫婦共同作業です。
夫が育児に無関心な人だったら、私は壮絶な双子の授乳期を乗り越えられませんでした。
辛いときほど笑顔を忘れずにいられたのも、一人で抱え込んで倒れずに済んだのも、夫がいてくれたからこそです。
まだまだ先の長い多胎育児。
これからも夫婦共同作業で乗り越えていくシーンは多いでしょう。
子どもたちのためにも、夫婦で辛さも楽しさも共有しながら、幸せな家庭を築いていきたいです。

作業量は2倍!可愛さは無限大!双子の沐浴タイム

娘たちが生まれた当初、賃貸のアパートに住んでいた我が家。
双子の場合、便利そうだからという理由であれやこれやとベビー用品を買っていては、何でも2倍です。
家中が物であふれかえることになってしまいます。
ベビー用品を買うのは毎回慎重でした。
そこで、ベビーバスは買わず、洗面台で沐浴をすることにしました。
幸い、シャワー付きの広い洗面台だったのです。
しかし脱衣所が狭く、肌着やバスタオル、おむつなどを二人分広げて準備はできませんでした。
そのため、脱衣所に1人分の着替え用の肌着やおむつを用意して、一人ずつ順番に沐浴をしました。
沐浴と保湿、簡易的な着替えを済ませたら、リビングで待っているもう一人と交代するという方法です。
手早く二人分の沐浴を終え、沐浴上がりのミルクを飲ませたり、櫛で髪を梳いてあげました。
1週間に一度は、お臍のヘルニアの圧迫処置もしなければなりませんでした。
綿球で飛び出たお臍を押し込み、上から特別な医療用フィルムを貼りつける作業です。
ぐずるとお腹に力が入ってしまい、作業ができないので、泣かれないように慎重に行う必要がありました。
二人分行わなければならず、場合によっては機嫌を見て違う時間帯にずらすことも。
双子の沐浴は一人一人丁寧に時間をかけていたら、待っている一人が泣き出してしまうので、毎日時間勝負でした。
沐浴の作業量の多さから、毎日沐浴をしない多胎家庭も珍しくないようです。
しかし、2カ月入院してやっと帰宅できた娘たち。
呼吸が安定するまで保育器から出られないので、沐浴はできず、長い間看護師さんたちに身体を拭いてもらって過ごしていました。
頑張って元気に帰ってきた娘たちに、自宅ではさっぱり過ごさせてあげたい気持ちから、毎日せっせと沐浴をしていました。
ただ、夫は帰宅時間が遅く、私一人で対応しなければなりませんでした。
どうしても泣かれたり、もっと丁寧に時間をかけてあげたいと悔しく思うこともありました。
ただ、圧倒的なマンパワー不足でしたので、「毎日沐浴してるんだからこれで充分!」と割り切って考えました。
退院当時の娘たちの体重は3000ℊ弱でしたが、NICU・GCUに入院していたころの細く小さな身体のイメージがあり、しばらくの間こわごわと沐浴をしていました。
しかし、長男の沐浴で実践経験を積んでいた私は手順や手技に問題はなく、想像していたよりもスムーズに行うことができました。
「気持ちいいね」と私が声をかけながら身体を洗ってあげていると、娘たちも温かいお湯に浸かってのんびりリラックス顔。
とろけたような表情に、こちらまでほっとした気持ちになりました。
娘たちはお風呂が好きなようで、泣かれることはほとんどありませんでした。
日常的に手が足りず、泣かれてしまうことが多かったので、ご機嫌に過ごしてくれている時間は私の気持ちを楽にしてくれました。
ずっとこんな時間が続いてくれたらと思うほどでした。
沐浴なら所要時間も短く、脱衣所とリビングを往復しても負担は少なく感じました。
娘たちは夏産まれでしたが、NICU・GCUを退院したのはちょうど涼しくなってきた季節でした。
自宅で2カ月ほど沐浴で済ませているうちに、だんだんと冷え込むようになりました。
娘たちは相変わらず沐浴が好きで、お湯の中で穏やかな表情をしてくれました。
それでも、足をおもいっきり伸ばすと洗面台の縁にあたってしまい、洗面台の中で窮屈そうに過ごす姿も見られました。
そろそろ沐浴は卒業して、お風呂デビューが必要だと思いました。
しかし、実は問題点がありました。
賃貸のアパートなので、脱衣所だけでなく浴室自体が狭かったのです。
娘たちを二人同時に洗い場に寝かせて、自分も一緒に入るのはさすがに不可能でした。
結局のところ、一人をリビングに寝かせて、もう一人をお風呂に連れていき、自分とその子が洗い終わったら、待っていたもう一人と交代するという作業が必要になりました。
洗面所での沐浴もスピード勝負でしたが、こちらのやり方はさらにスピード勝負です。
ドアを閉めると泣き声が聞こえませんし、「何かあったらどうしよう」と漠然とした不安があったので、リビング、脱衣所、浴室のドアは開けっ放し。
洗い終わり後にお湯に浸かっている間も気が気ではありません。
目が離れている間に吐き戻したミルクで窒息していたら。
布団が顔にかかって窒息していたら。
恐ろしい想像がいつも頭にちらつきました。
離れ離れになると不安になるのか、リビングで待っているほうの一人が泣き出すことも多かったです。
リビングから泣き声が聞こえてくると「早く出なければ」とついそわそわしてしまいます。
それではせっかく気持ちよさそうにお風呂に入っている娘にも申し訳なく、どうしたらいいのか悩むこともありました。
赤ちゃんは長時間お湯に浸からせられないので、娘が温まったタイミングで出ますが、私の身体は冷え切っていました。
脱衣所では適当に自分の身体を拭いて、娘の着替えや保湿を済ませると、私はバスタオル一枚姿で娘を抱きかかえ、小走りでリビングに向かいます。
廊下にバスタオルを落としてしまい、全裸でリビングに駆け込むことも度々でした。
全く気の休まらない1人のお風呂が終わっても、もう一人が控えており、また気の休まらないお風呂タイムの始まりです。
そんな生活を4カ月ほど続けました。
週末は夫の手助けがあり、いくらか気が楽でしたが、常に気を張って生活していたので、疲労が蓄積していきました。
次第に娘たちも寝返りの練習をするようになりました。
さすがに目を離すのは怖かったので、小学生の長男にリビングで見守りをお願いして、何か異変があったらすぐに教えてほしいと頼みました。
この時ばかりは仕事で不在がちの夫より、長男の存在が有難く、輝いて見えました。
長男はテレビ鑑賞や読書のついでに娘の様子を気にかけてくれ、実に頼もしかったです。
ただ、相変わらず冷え切った体にバスタオルを巻いて、リビングを往復する生活は続きました。
娘たちが寝返りを完全マスターしたころ、賃貸のアパートでの5人暮らしはさすがに手狭になってきました。
娘たちが修正月齢6カ月くらいで、広いマンションに引っ越しました。
マンションは脱衣所や浴室がアパートの2倍くらい広く、初めて娘二人と同時にお風呂に入ることができました。
とはいえ、二人を一緒に浴槽に入れることはできなかったので、一人が浴槽に浸かっている間、もう一人は洗い場で待機してもらいました。
浴槽に入るのは交互にはなりましたが、全裸でリビングと浴室を往復することもなく、初めて心から穏やかなお風呂タイムを満喫することができました。
この頃の娘たちは生活リズムも整って、以前ほど泣くことは減っていました。
双子だけあって、姉妹そろって大好きなお風呂に入れるのが落ち着くようで、いつにも増して明るい表情でした。
ご機嫌でニコニコ笑いながら3人一緒にお風呂に入る時間は、とても満ち足りた幸せな時間となりました。
ドアを開けっぱなしにする必要もなかったので、私の身体が冷えることもありませんでした。
この時私は初めて、これまでがむしゃらに、当たり前のように頑張り続けてきたけれど、一人で相当な無理をしていたことに気づきました。
意地のような、プライドのような、そんな自分の感情を最優先して、毎日娘たちをお風呂に入れてきたように感じました。
忙しさや大変さのあまり、「娘たちの成長や可愛さを見落としてきてしまったのではないか」と思ったのです。
余裕が生まれたことで、「これからは娘たちの可愛さや、多胎育児の楽しさを堪能しよう」と気持ちを前向きに切り替えることができました。
それからは、お風呂はのんびり楽しむ時間と考え、歌を歌ったり、いっぱい話しかけてコミュニケーションの時間になるよう心掛けました。
多胎育児は作業量が多く、その負担の大きさからつい辛さや大変さに目を向けがちです。
しかし、見方を変えれば、多胎育児ならではの楽しさ、愛くるしさのあふれる日々にすることができます。
娘たちに泣かれながら、一人バスタオルでリビングを往復するお風呂タイムは孤独で、大変だった思い出の一つです。
ただ、これからも娘たちの可愛さを見落とすことがないように、毎日の成長を慈しみながら娘たちと楽しく過ごしていこうと思える教訓になりました。
なにせ、多胎育児の可愛さは無限大です。
その無限大な可能性が私の頑張る原動力となるのです。

寝顔は天使!双子の寝かしつけ

2カ月NICU・GCUに入院していた我が家の娘たち。 退院するにあたって、電動のバウンサーを購入するつもりでいました。 双子の寝かしつけアイテムとして、インターネット上での評判がよく、当然のように我が家でも大活躍してくれることだろうと思っていたのです。
しかし、ここで想定外の問題が発生してしまいました。GCUにも電動のバウンサーが置いてあったのですが、まったく効果がなく、娘たちは看護師さんたちの抱っこでも寝ないというのです。幸い、購入に至る前でしたので、不要な出費を避けることはできました。しかし、この問題には頭を悩まされました。どうすれば寝てくれるのか見当がつかないのです。そこで、苦肉の策として、双子用のベビーカーをリビングにおいて、バウンサー代わりに揺らして使用してみることにしたのです。
娘たちが退院して一週間は、主人が仕事の休みを取ってくれていたので、二人体制で抱っこすればどうにかなるだろうと安易に考えていました。しかし、実際は考えていた以上にハードな夜が待ち受けていました。抱っこで揺らしても、小さな身体で何時間も泣き続けたのです。ミルクを飲んでお腹が満たされていても、おむつが濡れていなくても、何が気にいらないのか、ひたすらに泣くのです。しかも、よく通る声質なので、泣くと室内中に二人分の新生児の声が響き渡ります。やっと寝付いたころにはお腹を空かせて起きて、また泣きます。一晩中そのサイクルが続き、たった一晩で私と主人は目の下に黒いクマをつくることになりました。昼間は夜に比べるといくらかよく眠ってくれたので、夜に備えて仮眠をとりました。「一週間後、私は一人でベビーカーを揺らしてこの子達を寝かしつけることができるだろうか」と不安に感じました。
ただ、同じ寝顔で小さくちょこんと布団に寝転がり、すやすやと寝息を立てているときは幸せを感じました。まさに天使でした。2カ月も離れて暮らさなければならなかった娘たちが元気に帰宅できたことにも安堵しました。これからはずっと一緒にいられるのだと思うと幸せすぎて、いつまでもその寝顔を見ていたいと思えました。
結局、一週間娘たちは昼夜を問わず、抱っこしても泣き続けました。夫は疲れきった顔で出勤していき、私は娘たちと家に残されました。実は双子用の抱っこひもというのは存在します。ベビーカーではなく、抱っこひもを使おうかともほんの少し悩みました。説明書によると新生児期から使えるのです。しかし、首の座っていない新生児を二人抱っこひもに収めるのは至難の業でした。不馴れさのせいで怪我をさせたり、危険な目に遭わせるようなことはしたくありませんでした。「無理をして使ったところでどうせ泣かれるのなら…」と出番は先延ばしにしました。
その晩、私はお菓子や飲み物、フルに充電したスマホを用意し、一人での寝かしつけに備えました。図ったように夜になると、ミルクを飲ませても泣き止まず、私は主人が帰宅するまでベビーカーを揺らし続けました。何時間も一人で、娘たちの泣き続ける声を聞きながら、必死にベビーカーを揺らすのは無力感を伴いました。「抱っこしてあげられなくてごめんね」「泣かせてごめんね」と何度も心の中で謝りました。主人が帰宅すると、思わずホッとしてしまいました。ワンオペ双子育児・最初の晩は、二人がかりで抱っこであやし、寝かしつけました。
一カ月くらいはベビーカーで揺らし、主人の帰宅後は抱っこで寝かしつける日々が続きました。だんだん娘たちの首のすわりがしっかりしてくると、私一人でも抱っこひもを装着できるようになり、ベビーカーは卒業しました。しかし、ベビーカーから抱っこひもに変わっても、結局娘たちは泣き続けました。ただ、2時間くらい経つと寝付いてくれるようになったのです。劇的な進歩です。双子用の抱っこひもに二人がそれぞれおさまって眠る姿はなんとも愛らしいものでした。ずっと見ていても飽きないと思えるほどでした。毎日2時間、合計7~8㎏の娘たちを抱っこし続けたため、私の肩や背中は大ダメージをくらいました。毎日肩や背中が凝って痛くなってしまいましたが、休む間もなく次の日がやってきます。
週末は抱っこひもで寝かしつけをするのではなく、主人と二人で抱っこであやして寝かしつけました。普段二人同時に抱っこをしているので、一人だけだと随分軽く感じました。試しに主人が双子用抱っこひもで二人を抱っこしてみたところ、「可愛い」とにやけ顔でした。ただやはり、10分もすると「肩が痛い」とギブアップ。赤ちゃんが一人しかいない家庭なら、夫婦で交代してあやし、休むこともできるかもしれません。しかし、双子の場合、大人が二人いても一対一になるだけです。主人は仕事が多忙で疲れている中、積極的に育児に参加してくれていました。そんな主人に対して、「私は毎日2時間二人同時抱っこしてるんだから、今日は二人とも寝かしつけよろしくね」なんて言えませんでした。
時折、娘たちは「パパの抱っこは嫌」と主人の抱っこを拒み、大人が二人いるにも関わらず抱っこひもを使わなければならない日がありました。理由は未だに分かりません。ちょうど人見知りが始まった時期だったので、パパ見知りをしてしまったのかもしれません。「誰の抱っこでもいいじゃないの」と思いましたが、娘たちは二人そろってこだわりが強いようで、自分の主張をはっきりする子たちでした。当然、娘たちに拒否された主人の落ち込みようは言うまでもありません。
それからさらに半年ほどたち、末娘の妊娠が発覚したため、頼りの抱っこひもが使えなくなりました。これからは添い寝で寝かしつけなければなりません。最初の二日ほどは抱っこひも同様2時間くらい泣かれましたが、そのうち疲れて眠りました。その頃の私は背中や肩の凝りから毎日頭痛に悩まされていましたが、久しぶりに寝転んですごしたお陰でだいぶ楽になりました。3日も経つと、娘たちは驚いたことに添い寝ですんなり眠るようになったのです。「この半年の格闘は何だったのか…」と思わず拍子抜けしてしまいました。もしかしたら、幼いなりに新しい命の芽吹きを感じ取ったのかもしれません。
毎晩泣いて泣いて泣き抜いて、泣き疲れて眠る普段の寝顔に比べると、その晩の寝顔はとても穏やかで満ち足りたように見えました。見慣れた寝顔のはずなのに、涙の跡の残っていない丸い頬はどことなく幸せそうだったのです。私は「この子たちはきっと優しいお姉ちゃんになる」と確信しました。同じ寝顔が二人。来年には二人よりほんの少し小さな、同じ寝顔が一人増えることにさらに幸せを感じました。
双子育児は毎日が精いっぱいです。いっぱいいっぱいの中で、小さな幸せを見つけては一喜一憂し、自分を鼓舞しています。どんなにしんどい思いをしても、双子を授かったことは神様からの贈り物だと思っています。もちろん、育児に追われて、自分の自由時間持つことはおろか、食事や睡眠も満足にとれず、疲弊しきってしまう日も少なくありません。最後にお洒落をして出かけたのはいつか思い出せないくらい前だし、髪の毛は伸び放題。幼児向けの番組ばかり見ているので、流行りにも疎くなりました。童謡や手遊び歌の方が詳しいくらいです。しかし、そんなズタボロな日々を過ごしていても、知らんぷりでぐっすり眠っている我が子の寝顔を見れば、すべて帳消しになってしまいます。昼間の大変さ以上に、夜に訪れる束の間の平穏が勝るのです。それはきっと、世界で一番愛らしい天使がかける不思議な魔法だと思わずにはいられません。娘たちが2歳になった今でも時折夜泣きをしてしまう日もありますが、大変だったあの頃に比べるとだいぶ楽になりました。同じ寝顔の二人と、少し小さな一人。これからも困難にぶつかることがあるかもしれませんが、娘たちの健やかな寝顔を見ながら乗り越えていくつもりです。

まさに爆食!食欲旺盛な双子の離乳食

我が家の双子の娘たちは修正-2カ月だったので、離乳食に関してのんびりと構えていました。日本での離乳食開始は一般に5カ月からですが、WHOでは6カ月以降を推奨していたため、なんなら修正月齢6カ月以降から開始しようとさえ考えていました。しかし、予防接種でかかりつけの小児科を受診した際、突然離乳食を開始しても良いと言うのです。それは月齢7カ月、修正月齢5カ月に入ったばかりのことでしたので、正直とても驚きました。かかりつけの小児科医によると、「離乳食の開始が遅くなると離乳食の食べが悪くなることがあるし、この子たちの成長発育は追いついてきているから」とのことでした。そこで急遽、離乳食用の食器や調理機材などを買いに行く羽目になったのでした。
離乳食の滑り出しは順調にいくかと思っていたのですが、最初から見事にしくじりました。どう頑張っても娘たちは10倍粥を食べないのです。口触りが悪いのかと丁寧にすりつぶして濾してみても毎回惨敗します。長男がお粥をよく好んで食べていたので、当然のように娘たちもお粥を好むとばかり思っていたので、正直戸惑いました。「まだミルク以外のものに慣れていないからだろう」と思い直し、娘たちが離乳食に慣れるのを待つことにしました。大してお粥を口にする間もなく、野菜ペーストが開始しました。すると途端に、娘たちは目を輝かせながら離乳食を食べるようになったのです。大根でもにんじんでもなんでもござれ。ものすごい勢いで野菜を食べつくしていきます。相変わらず、お粥は少ししか食べませんが、野菜に関してはもっと欲しいと食べたがるのです。驚いたことに、娘たちはお米より野菜が好きだったようです。娘たちの独特な感性は他の食べ物に関しても同様でした。離乳食を段階的に進めていくと、娘たちは米・肉類はほとんど食べず、野菜や豆類、魚類、乳製品ばかり好みました。
娘たちをおそろいのローチェアに座らせ、順番に離乳食を食べさせていきます。大きな口を開けて大好きな野菜を待っている姿は、ツバメのひなが親鳥にご飯をねだっているようでとても可愛らしいものでした。しかし、私が少しでももたつくと「早く食べたい!早くして!」と言わんばかりに、途端に怒り出します。可愛さを堪能する間もなく、私はただひたすら娘たちの口に離乳食を運びます。春先だというのに、じんわりと汗ばむほどでした。開始時期の出だしが遅めだった割には、食べが悪くなるということは一切ありませんでした。それどころかむしろ、今まで抑えていた食欲爆発したかのような食べっぷりでした。
やがて食べる量が増えていくと、作り置きの離乳食の量も増えていき、いつしか大鍋でゴトゴトと野菜を大量に煮るようになりました。まるで小学校の給食を作っているかのよう。煮終えた野菜は小分けにして冷凍保存しました。実は長男の時に冷凍保存をした離乳食を完全拒否した経緯があったので、冷凍保存した離乳食を食べてくれるのは大変助かりました。毎回作りたてを用意しなければならないのは手間と時間を要したからです。
しかし、そんな娘たちにも困ったことがありました。市販の離乳食を一切受け付けないのです。一口食べるなり顔をしかめ、一瞬震えた後で吐き出し、それきり口を閉じてしまいます。スプーンをむけても、もういつものような食欲はありません。洋風、和風、中華と色々取り揃えたり、メーカーを変えてみたりしたのですが、いつも同じ結果でした。当時、末娘の妊娠中でつわりもあったので、たまには市販の離乳食で楽をしてしまいたい日があったのですが、食べてくれないのでは仕方ありません。幸い、双子を連れて外食をする機会がなく、自宅で過ごしていたので、市販の離乳食のお世話にならなければならない状況はありませんでした。
結局、週に一度、大鍋で野菜を煮て、ゆでてほぐした魚や、下調理した納豆などと一緒に冷凍保存する日々は続きました。大量の野菜も、食欲旺盛な娘たちによって食べつくされてしまい、一週間後にはまた同じことの繰り返しです。離乳食にかかる費用は毎月5000円ほど。極低出生体重児であった娘たちには、身体によいものを食べさせてあげたかったため、できるかぎり産地やオーガニックにこだわりました。
やがて手掴み食べが始まると、薄い小判型に焼いたさつまいももちやつくねを大量に作り、冷凍保存しました。特につくねは野菜や豆腐を入れて、苦手な肉だと気づかれないように工夫する必要がありました。1人分の離乳食でも準備をするのに手間暇がかかるものですが、双子となると用意する量が二倍。相当な労力と時間を要します。週に一度、離乳食の作り置きを用意する日は何時間も台所に立ち続けなければなりませんでした。妊娠中なのでお腹が張って辛くなってしまう日は台所に椅子を持ち込んで、座りながら作業しました。
それでも頑張れたのは、娘たちが毎回残すことなく、キラキラと瞳を輝かせながら離乳食を食べてくれたからだと思います。食べている最中こそ、私の不手際でプリプリ怒ることも多かったのですが、食後はきまってご機嫌な笑顔を見せてくれました。どんなに大変でも「美味しい」と食べてくれるなら、いくらでも頑張れました。1歳になる前にはもうほとんど粉ミルクを飲んでおらず、栄養を離乳食で賄っていました。
相変わらず白米とお肉は拒否気味で、ふりかけご飯や一口おにぎりにしたり、味付けを工夫したり頑張りましたが、効果はないようで毎回撃沈。せめてご飯を食べてくれたら、チキンライスや混ぜご飯などにして細かく刻んだお肉を食べさせられたのですが、ことごとく拒否され続けました。実は野菜や豆類、卵などのヘルシーな食生活は2歳になった今でも続いています。
新たに頭を悩まされたのは、娘たちが適切な一口量を判断できず、とにかく口に詰め込んでえづいてしまうことでした。食欲旺盛故、目の前に食べ物が置かれていると我慢できなくなってしまうようでした。そのため、毎回二人の目の前に一口分ずつを置き、飲み込んだのを確認してから次の一口を置くようにしました。その手際が悪いと娘たちが怒るので、常にスピード勝負。まるでわんこそばです。娘たちの離乳食にかかりきりで、自分のご飯などゆっくり食べられる時間はありません。1歳半ころまで、娘たちの猛烈な爆食は続きました。
充分な栄養を摂ったからなのでしょうか。1歳になるころには通常の月齢と同じ程度まで成長・発育が追いつき、修正月齢は今後必要なしと病院で判断されました。極低出生体重児は、かかりつけの病院に指示された年齢まで、発達フォローアップ外来を受診しなければなりません。後遺症や合併症、発育の遅れなどがなくても、念のため受診するよう言われるのです。我が家の娘たちも例外ではありません。就学するまで定期的な受診をしていく予定です。今は何も問題がなくても、今後もしかしたら何か起こり得るかもしれないというのは、漠然とした不安を伴います。普段元気なだけに余計です。これからも多くの不安はつきものでしょう。それほどまでに、小さく早く生まれた子たちにはリスクがあるのです。しかし、だからこそ悔いのないようにできる限りのことをやってあげたいと思えます。食事はその一環です。あのころの猛烈な食欲はいくらかおさまりながらも、2歳になった娘たちは今も毎日もりもりと野菜ばかり食べています。食事中のお喋りも欠かせないようで、2人で笑いながら話しこみ、私に注意されることもしょっちゅうです。これからも娘たちの健康のためにも、試行錯誤を繰り返しながら、食事の時間を楽しんでいきたいです。

前の記事へ

実家に頼れない共働き夫婦の子育て法

次の記事へ

寝ない赤ちゃんの寝かしつけ方

関連記事

詳しく見る