コロナ禍での出産・育児体験記

2022年1月21日

病児保育

第一章「コロナ禍での妊娠。嬉しさ半面戸惑いも」

はじめまして。私は現在31歳で、九州のとある県在住のごくごく普通の主婦です。生後8か月の娘の育児に日々奮闘しておりますが、現在にいたるまで様々な困難がありました。初めての妊娠・出産・育児に里帰りできない環境、ワンオペ育児。今回はそんな私の体験談を執筆したいと思います。

2020年1月、未知のウイルスの存在が世間で騒がれ始めた頃、私達夫婦は妊活を開始しました。周囲からは「コロナが落ち着いてからでいいのではないか」「まだ夫婦2人の時間を楽しんでもいいのではないか」とアドバイスを受けることもありましたが、新婚旅行を終えたばかりの私達は周りの声よりも「自分達の子どもに会いたい」という夫婦の想いを優先しました。そして2020年7月、娘の妊娠が発覚するのです。

娘の妊娠は私達夫婦に喜びと希望をもたらしました。まだ見ぬ我が子に毎日話しかけ、会える日を楽しみにしていました。しかし、世間はコロナ真只中。症状や治療法において情報が不足するなか、私のマタニティライフは幕をあけるのです。まず、夫は産婦人科へ付き添うことが出来ません。本当は一緒に妊婦検診へ行き、エコーを眺め、「これが頭かな、これが足かな」なんて他愛もない会話をしたかったのですが、結局それは叶わず終いでした。病院でエコーの動画をDVDにダビングしてもらい、健診が終わると真っ先に自宅で動画の鑑賞会をしたものです。そして、つわり。匂いを敏感に感じるようになり、頻繁に乗り物酔いをするようになりました。通勤時間はバスで15分ほどですが、その15分が当時1時間・2時間のように感じていました。マスクを着用した乗客でいつも満員のバスの車内。いつ感染するか分からない恐怖。立っているのもやっとの状態でしたが、毎日職場まで通いました。

ベビーグッズの買い出しはインターネットでクチコミなどの事前情報を調べ、目星をつけてから店舗へ向かいました。そして最短時間で買い物を済ませ、帰宅。母親学級もリモート開催で実技はなし。本当は何度も店舗へ足を運びベビーグッズを揃えたかった。母親学級に夫と参加し、妊婦体験や沐浴の実技演習を受講したかった。私のマタニティライフは常にコロナウイルス感染への恐怖と共にありました。

安定期に入り体調も落ち着いてきた頃、夫と2人で産前旅行に出かけました。当時行政のキャンペーン等もありましたから、それらをフル活用し、隣県のちょっといい温泉旅館に出かけました。露天風呂がお部屋についていており、お食事もお部屋でいただくことが出来ました。徹底した感染予防対策が施されており、コロナ禍でどこに出かけるにも気が引けていた私達は久しぶりに外出を楽しむことが出来ました。

そして私にとっての1番の問題は「里帰り問題」でした。私は元々、母親と折り合いがあまり良くありません。母親と何でも言い合える関係だからこそ、顔を合わすと頻繁に喧嘩をしてしまうのです。私は、妊娠前から「里帰り出産をしなくても自分達でなんとかやっていける!」とどこか楽観的に考えていました。「親に頼らなくても自分なら大丈夫。」と少し強がっていた部分もあったかもしれません。しかし妊娠期間が進み出産まであと数か月というところに迫った頃、急に不安感に襲われました。今思えばホルモンバランスの変化で起こる「マタニティー・ブルー」だったのかもしれませんが、「本当に夫婦2人だけで育児が出来るのだろうか。」と日々悩みました。産前は夫も意識して休みを多くとり、私の不安を払拭しようとなるべく一緒に過ごしてくれましたが、それでも仕事に行かない訳にはいきません。1人で過ごしている時、頭の中は不安感で満たされてふとした瞬間に涙が溢れたものです。出産による自分への身体のダメージや新生児との生活が未知数の中、やはり安心して育児がしたい、と思った私は、母親へ里帰りの話をしました。

母親が現在居住しているのは関西地方のとある県。当時は私達夫婦が住んでいる地域よりもずっとコロナウイルスが猛威を振るっておりました。移動は新幹線と在来線を乗り継いで4時間はかかります。既に大きいお腹を抱え新幹線で移動、そして産後に赤ちゃんを連れて新幹線で自宅に戻ることが果たして可能なのかよく考えました。そして次の問題は分娩する病院への予約です。一般的に妊娠20週までに出産する病院へ分娩予約をとります(私が出産した産院ではそうでした)。人気の産院では妊娠5週・6週で分娩予約を取らないと出産が出来ないと言われるほど。里帰りへの情報収集を怠っていた私は里帰り先での分娩予約をそもそも取ることが出来なかったのです。

新幹線移動への不安、分娩予約が取れない、となれば残る選択肢は1つ。私は、母に関西から九州へ来てもらえないか提案しました。ただ当時は連日コロナウイルスの感染者数がニュースで流れ、県を越える移動は自粛するよう言われていた時期でした。今ほどワクチン接種も進んでいません。私が自分の気持ちを優先して母や周りの人をコロナウイルスへの恐怖にさらしていいものか。悩みに悩んだ結果、里帰りをしない決断をしました。母親は電話口で涙を流しながら私に謝罪していました。「助けてあげられなくてごめんね。」と。私は3人兄弟の1番上。産まれてくる子どもは両親にとっても初孫になります。自分が親になった今だからこそ、その時の母親の気持ちが良く分かります。初めての出産・育児を控え不安に駆られた娘を助けてあげることが出来ない、心配性の母親ですから余計に気に病んだでしょう。コロナウイルスさえなければ私も自分に正直になって母親に甘えることが出来たのかな、といまだに思います。

2021年2月、最終出社を終えた私は産前休暇に入りました。一般的には出産の1カ月から2カ月前から里帰り先で過ごす方が多いようですが、出産まで自宅で過ごすことにした私は朝起きて夫が仕事に行くのを見送った後に最低限の家事をこなすだけの生活で、暇を持て余していました。と言っても季節は冬。散歩に出かけるのは寒いし、かといって買い物等で人混みに行くのも気が引ける・・・。その時、出産予定日まで残り1カ月半ほど。出産したら出来ないことを今のうちにやっておきたいと産休に入る前は考えておりましたが、結局時代の流れもあってか自宅での時間を過ごす日々が続きました。

妊婦検診も2週間に1度から1週間に1度になり、成長曲線を少しはみ出すほどのビッグベイビーでしたから身体を動かすことも大変でした。出産予定日が迫った頃、産婦人科よりコロナウイルスの感染を調べる為の検査の案内がありました。しかし、もし陽性が出ると帝王切開での出産になること・指定された大きな病院での出産になること・立ち合い出産も出来ないこと、そして産まれたばかりの我が子とすぐに引き離されてしまうことの説明がありました。あくまで任意の検査でしたが、陽性判定を受けた際のデメリットが非常に大きいのです。検査を受けるかどうかギリギリまで悩みましたが体調も良く発熱も無かった為、病院側とも相談し検査を受けずに出産に臨むことに決めました。

出産予定日は3月下旬でしたが、予定日を過ぎても、4月に突入してもなかなか陣痛が始まりません。そして予定日から10日を経過し、私は陣痛促進剤を使用して誘発分娩を行うことになるのです。

第2章「出産、そして始まるワンオペ育児」

2021年4月初旬、出産予定日から9日を過ぎ、私は陣痛促進剤を使用する誘発分娩の為、入院しました。時代はまだまだコロナ禍でしたが、病院のご配慮もあり入院時には夫も産婦人科の院内への立ち入りが許可されました。翌日の出産に備えて子宮口を広げる処置をし、その日はそのまま病室で過ごしました。夜、不安とワクワク感で眠ることが出来なかったのを今でも覚えています。

翌日、早朝にシャワーを済ませた後に陣痛促進剤の点滴が始まりました。少しずつ薬の量を増やしていくのですがなかなか陣痛が始まりません。そして昼食を終えて面会時間になり夫が病室に現れた時、空気を読んだかのように陣痛が始まるのです。陣痛の痛みは想像以上でした。夫に腰をさすって欲しいと頼んでおきながら、さする場所が違うと怒っていたようです。痛みに耐えきれなくなった私は医師にお願いして無痛分娩への切り替えを行いました。背中より麻酔液が注入されると今までのお腹の痛みはスッと無くなり身体に入っていた力が抜けたようでした。

しかしなかなか娘は産まれてきてきれません。頭が大きく私の骨盤を通ることができないようで時間だけが過ぎていきました。「あと1時間で出産に至らなかったら帝王切開に切り替える可能性もあります。」と医師から告げられ、そこからは正直あまり記憶がありません。無痛分娩へ切り替えたといっても完全無痛ではなく骨盤の骨の痛みや陣痛の周期でお腹が張る鈍痛は残っていましたから助産師とタイミングを合わせ必死にいきみました。最後は助産師が私のお腹に馬乗りになり、体内からボウリング玉が出てくるような感覚と共に娘が生まれました。お腹の中でのんびりとしていた娘は4200グラムを超える大きな赤ちゃんで、新生児室で誰よりもずっしりと構えていた姿が印象的でした。

そして産後5日間の入院生活を終え自宅に戻る日がやってくるのですが、その日からが大変でした。忙しいワンオペ育児の日々が続くのですが、まず前提条件として私の夫は育児に全く協力しないという訳ではなく、むしろ自宅にいる時は率先して娘のお世話をしてくれます。しかし少し特殊な仕事柄出張が多く、週末はほぼ自宅にいませんし時期によっては1週間、2週間と出張先から戻ってこない時もあります。一般的に産後1カ月間は赤ちゃんのお世話以外はゆっくり身体を休めた方がいいと言われていますが、私にはそんな余裕はありませんでした。傷の痛みが酷く残るなか、慣れない育児に奮闘する日々が始まるのです。

始めの頃、私がワンオペ育児を行う中で1番苦労したことは娘の沐浴です。ビニール製の沐浴バスにお湯を張り、慣れない手つきで娘の沐浴を行いました。顔にお湯がかかってしまったとか耳にお湯が入ってしまったとかでなかなか上手に沐浴を行うことが出来ず良く自己嫌悪に陥りました。娘の身体をひっくり返して背中を洗うことが特に苦手でいつも苦労しました。片手で娘の頭を支えていると自分の身体に力が入ってしまい出産時の傷が痛みましたが、完璧主義の私は手を抜くことができず退院時に処方されていた痛み止めを服用しながら毎晩沐浴を行いました。夫が自宅にいる時は娘の沐浴は夫の担当でしたが、産後自宅に戻ってから1週間後には出張に出かけておりましたから、頼れる人もいませんし自分でやるしかなかったのです。娘の沐浴が終わり寝かしつけた後に自分のお風呂の時間を設けていたのですが、いつ娘が目覚めてしまうか分かりませんしいつも手短にシャワーを浴びるだけでした。いつの日からか髪を洗う際にコンディショナーは使用しなくなりました。髪の毛もいつも半渇きの状態で、娘が授乳を求めて目覚める前に、少しだけ眠るのでした。

娘の育児に加えて家事も全くしない訳にはいきません。娘が寝ている間に洗濯や掃除をさっと済ませ、キッチンで立ちながらとりあえず食べ物を口に入れる、という日々でした。母乳育児や産後の慌ただしさもあり妊娠で増えた体重はすっかり落ち、産後の1カ月健診の時は妊娠前よりも痩せていました。出産前は不安ながらも「里帰りせずとも自分達でなんとかやっていけるだろう」と思っていましたが全くそんな訳はなく、毎日娘の育児で手一杯で自分の心の余裕と体力がどんどん削られていきました。周りの友人達はそんな私を心配し手伝いを申し出てくれましたが、コロナウイルスの感染者が連日報道されるなか友人達と会うことも気軽に出来ませんでした。

当時娘の授乳は1時間半から2時間おき。哺乳瓶を拒否する娘でしたから完全母乳育児をせざるを得ませんでした。抱っこで揺れていないと寝てくれず、布団におろすといわゆる“背中スイッチ”が発動しすぐに起きてしまい寝かしつけをやり直す・・・とその間に次の授乳の時間がやってくる、と自分の時間なんて全くありませんでした。産前は洋服や化粧品が好きで身なりには気を遣っていましたが、産後は1日中パジャマで過ごし、化粧もしない毎日でした。曜日感覚も全く無いまま娘のお世話と向き合っており、そんな私を夫はとても心配してくれましたが、強がってしまう私の性格もありなかなか素直に頼ることができませんでした。今でこそ離乳食も始まり授乳間隔も短くなってきたので余裕も出てきましたが、当時は夜眠ることも出来ず産後鬱の1歩手前まで自分を追い詰めていたと思います。

私にとって里帰り出産をしていたら体力の回復はもちろん精神的な面でも救われていただろうということは明白でした。初めての育児は手探り状態で育児書やインターネットで調べながら行っていましたが、「もし里帰り出産をしていたら、1人でなかったらこんなに悩むことはなかったのだろうか」と考えてしまうこともありました。もちろん里帰り出産をした全ての母親が楽をしているだとか、そのようなことを言うつもりはありませんし、それぞれ違った悩みを持ちながら育児に奮闘しているのだと思います。しかし当時の私は里帰り出産をした人達のことを心底羨ましく感じていました。産後の身体のダメージも初めての育児も自分の想像以上に大変で、もし当時の自分に声をかけるなら「1人で抱え込まず周りに頼ってもいい」ということを伝えたいですし、周りに自分と同じ思いをしている人がいるならば助け船を出したい、そう思っています。

私が里帰り出産を行わずに育児をしている中で最も後悔していることは、娘を自分の母親に会わせてあげられていないということです。コロナ禍という時代のせいでもありますが、気軽な移動が出来ない中、娘が“おばあちゃん”に会えないまま8ヶ月もの月日が経過しました。写真を送ったりテレビ電話をしたり、ということはたまにしておりますが、やはり直接対面する喜びには及ばないと思います。母親からすれば娘は初孫であり、会いたい気持ちは持ってくれていますが「会いに行きたい」となかなか言い出すことのできない母親に申し訳ない気持ちでいっぱいですし、1日でも早くウイルスが収束し娘の笑顔を両親に見せてあげる日がくることを願っています。

第3章「初めての試練、夫婦でコロナ感染。育児中に感染するとどうなるのか!?」

私達夫婦はコロナウイルスが世界に猛威を振る舞い始めた時期に妊活を始め、娘を授かりました。ウイルスはすぐに収束することはなく連日多くの感染者数が報道されていましたが、ついにウイルスの魔の手が私達に襲い掛かりました。2021年夏、夫と私はウイルスに感染してしまうのです。

私の夫は少し特殊な仕事柄、県をまたぐ出張が多いです。コロナウイルスの流行が収束しない中、夫は2泊・3泊と出張先で過ごしては自宅に戻り、また出張に出かけていく・・・という生活をしておりました。自宅に乳児がいますから自分達なりに感染対策はしっかりとしていたつもりです。マスクや手洗いはもちろん、アルコール消毒液は持ち歩き、人混みは避け、感染しないよう努力していました。夫も「自分がウイルスを持ち帰るわけにはいかない。」と気を遣っておりましたし、出張先でも仕事場とホテルの往復のみだったと言います。そんな生活を送っていたある日、夫が体調を崩しました。体温を測定してみると38度を超えていました。その日は念のため自宅内で隔離しドアノブや共用スペースをアルコールで念入りに消毒しました。

翌朝、夫は仕事を休み病院を受診することにしました。めったに風邪もひかない夫ですから少し胸騒ぎがしましたが、「感染対策もしっかりしているし、きっと大丈夫だろう。」とその時は気楽に考えておりました。自宅で娘と過ごしながら夫の帰りを待っていましたがなかなか帰ってきません。心配していると携帯にメッセージが届き、そこには「コロナウイルスに感染していた。ごめん・・・。」と書いてありました。その文面を見た瞬間、時が止まったようでした。そして歩いて自宅に戻っているというではありませんか。私は慌てて換気や消毒をし、リビングのドアを閉め、夫と娘が家庭内で接触しないように対策をしました。夫の感染が発覚した時期、私達が暮らす県では連日数百人の感染者数が報告されておりました。感染が発覚したタイミングでホテルなどに隔離されれば良かったのですが、保健所からの指示があるまで自宅で待機するよう病院からは言われました。

保健所から明確な指示があったのは感染が分かってから2日が経った頃でした。てっきりホテル療養になると思っていたのですが空きがないため自宅で療養するよう言われるのです。日々の育児に加え、夫の看病。しかも軽い風邪でもなくコロナウイルス。私も娘も濃厚接触者に認定され外出も出来なくなりました。とにかく娘に感染させないように消毒等の感染対策は徹底して行いました。当時娘は生後4か月。乳児の感染報告があまり無い中、インターネットで必死に情報収集を行いました。中には感染した乳児が死亡してしまった記事もあり胸が締め付けられるようでした。神経をすり減らしながら過ごしていましたが夫の感染発覚から2日後の夜に私もひどい悪寒と共に39度の発熱が起きるのです。

自宅にコロナウイルスの感染者がいる状態ですし、自身も感染してしまったと悟りました。きつい身体を必死に起こし娘の夜間授乳を行い、朝が来るのを待ちました。保健所へ連絡をし、検査を受けるため病院に行きました。娘はその時何も症状がなく元気だった為、医師の判断により私のみ検査をし、コロナウイルスの陽性判定を受けました。娘とは常に一緒に過ごしていますし娘もウイルスに感染しているのではないか、検査した方がいいのではないかと気になりましたがその日はそのまま帰宅するよう言われました。濃厚接触者の娘を誰か代わりの人に預けて面倒を看てもらう、という訳にもいきませんから健康観察をしっかりしながら自宅で保育をするよう保健所からは指示がありました。

ウイルスに感染して夫婦共倒れの中、育児を休む訳にはいきません。授乳も寝かしつけも娘との遊びも、身体は本当にしんどかったのですが、娘の笑顔をみると「頑張ろう」と自然に思えるのでした。私は自宅にあった解熱剤を服用すると熱は下がり、喉の痛みや嗅覚障害など症状はありましたがなんとか動けるまでに回復しました。しかし夫は病状が全く良くなりません。解熱剤を飲んでも40度近い熱が一向に下がらず血中酸素飽和濃度もどんどん低下していきました。医師の往診を受けましたが快方には向かわず、保健所へ連絡をして専門の病院で精密検査を受けることになりました。夫の病状が悪化していることは素人目で見ても明らかでした。夫は基礎疾患もない健康な20代です。自治体から車の手配ができない為、自家用車で病院へ夫を連れていくよう指示がありました。「若いしきっと大丈夫だよね」と自分に言い聞かせながら車の中で夫が診察から戻ってくるのを待ちました。結果は重度の肺炎で、自宅療養を続けると命にかかわるとの医師の判断から即日入院となりました。夫が入院できるとなり安心はしましたが、私はコロナウイルスに感染している状態で、ワンオペ育児を余儀なくすることになるのです。

娘に感染させないよう自宅で育児を行う時は常に手袋とマスクを着用していました。1日の流れとしましては、朝起きてまず自分と娘の検温です。時間と体温とその時の症状をメモ用紙に記録し、保健所から健康観察の電話があった際に内容の伝え忘れがないようにします。そして飛沫が飛ばないよう注意をしながら授乳をし、昼寝の為に寝かしつけ。療養中は外出することが出来ませんので娘との遊びは専ら室内でした。窓際で日光浴をさせながら絵本を読んだり子ども番組を一緒に見たりして過ごしました。入浴中もマスクを外すことは出来なかったので、自分がのぼせて倒れないよう注意しながら娘とお風呂に入りました。夜間授乳も休むことなくやってきますので辛い身体に鞭を打ちながら行いました。自分の洗濯物と娘の洗濯物は一緒に洗わないようにし、こまめに換気と消毒をし、とにかく娘に感染させないよう細心の注意を払いながら毎日必死に過ごしていました。

夫が入院してから数日後、娘に咳と微熱の症状が出始めました。産まれてから風邪もひいたことがありませんでしたし、覚悟はしていたものの娘もウイルスに感染してしまったかもしれないと不安で仕方がありませんでした。保健所から指定された病院へ連絡をして、娘も検査を受けることになりました。看護師に押さえられながら鼻の奥に綿棒を入れられている娘を見て涙が止まりませんでした。私達が感染していなかったら娘はこんな痛い思いをしなくて済んだのに、と自分を責めました。帰宅して数時間後に病院から連絡があり、娘のコロナウイルス感染の陰性が判明しました。娘の陰性判定は本当に嬉しかったですし、辛い療養生活の中に希望の光が見えたようでした。そして娘と2人きりでの療養生活が始まってから約2週間が経った頃、夫の退院の日がやってきました。

夫婦共に微熱や嗅覚・味覚障害の後遺症がありましたから、保健所から指定された自宅待機期間を過ぎてもしばらく自宅で療養することになりました。娘はパパがずっと家にいることがどこか不思議そうでしたが、療養期間中は私のワンオペ育児も一休みし家族の時間をのんびりと過ごすことが出来ました。夫婦そろってのコロナウイルス感染は、当たり前の日常は急に崩れてしまう、ということを特に感じた経験でした。現在は体調も良くなり、夫の出張漬けの日々や私のワンオペ育児は復活していますが、この慌ただしい毎日が本当に幸せなことなのだと実感しています。これからも娘の成長を見守りながら、1日1日を大切に過ごしていきたいと思います。

 

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