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2022年6月20日
子育て
離乳食がはじまった頃、ごはんを柔らかく炊いたり、野菜をすりつぶしたり、こりゃ大変だなぁと思っていた。確かに手間がかかるのだが、たくさん作って冷凍して、食べるときに解凍すればいいという先人たちのスタイルを模倣してなんとかやっていた。
幸い娘は、「あーん」と口を開けてくれる。娘は中でも素麺がお気に入りだった。柔らかく茹でて水で洗っても少し塩気が残っているのもあるのか、まぁまぁ食べた。まぁまぁ食べてくれるしまぁまぁミルクも飲むし、巷で聞くよく食べる子の兆候はないものの、問題はないと思っていた。
唯一よく食べるなぁと思ったのは、通販で買った、「無添加、有機米、無農薬野菜」のベビーフードをあげたときだった。滋賀県の農家の、旬の野菜を使ったこだわりのベビーフードに我が家の0歳児は、違いがわかる赤子然として、ペロリと食べた。母が手間をかけて作ったドロドロの素麺よりおいしそうに食べた。私も0歳児だったなら声高らかに素麺よりこっちの方がいいと言ったはずだが、あいにく母親の立場としては複雑な胸中である。しかしそのおかげでこのベビーフードは、外出の時はこれがあれば安心というお守りになったのだ。
月齢ごとの食べられる食品や、柔らかさや食べさせ方など、調べればすぐにわかかる離乳食は、手間はかかるがやることはわかりやすい。マニュアルがあると安心するタイプの私には、大変だなぁと言いながらもドロドロの素麺を作ることはそんなに苦ではなかったのである。離乳食は、アレルギーの有無を調べる為にも必要だと思うし、こんな味のしないごはんおいしいのかなぁなどと考えながらも、口を開けてくれる娘がかわいくて、幸せな気持ちになったりもした。こうして私は比較的平穏に、完了期までを終えることが出来たのである。
1歳を過ぎるころにはあっさりと断乳も済み、ついに幼児食がはじまった。「幼児食」とは1歳半~6歳未満の食べる食事のことを指す、らしい。
私はいきなり戸惑った。「離乳食」と検索すると、生後5ヵ月の頃から2ヵ月ごとに作り方や食べさせ方を懇切丁寧に教えてくれるのに対し、「幼児食」の幅広さは、広大だった。昨日までは団地の中庭で手をつないで遊んでいた子に、急に北海道の大草原に連れてこられて、じゃあね!と去られた心細さだ。「幼児食」と検索すると、昨日までべちゃべちゃの素麺を食べていた子がこんなものを!?という大人にもおいしそうなメニューが出てくるのだ。わたしはここでやっと、「離乳食」と「幼児食」が大きく違うということに気づくのである。
むちむちだった赤ちゃんは、歩きはじめると、少しずつ赤ちゃんではなくなっていった。よく動き、よく笑った。1歳6か月の検診で、小児科の先生が「よく動きますか?」と聞かれた。この時期はよく動くようになるので体重があまり増えなくなることがあるそうだ。そう、このあたりから雲行きが怪しくなってきた。生まれたときから身長も体重も平均値だった娘の、体重だけが成長曲線の下の線ギリギリになっていった。
実際に娘はとても元気で、発達の問題もなく、精神も身長もスクスクと育っていった。ふわふわでおぼつかなかった足元が、すらりと伸びてどこまでも走っていけそうに見えた。今思えば、元気ならばなぁいいか、と済ませてもよかったのかもしれない。しかし、親心はそうはいかないのだ。私はスマホを片手に、娘に食べてもらえる工夫を考えだす。
実際、幼児がごはんを食べないのには理由があり、集中できない、うまく食べられない、味や食感が好きじゃない、ただ単に食べたくないだとか、色々な理由があるのだろうが、親側の意見も、お腹がすけば勝手に食べるだとか、食事は決まった時間に摂るべきだとか、少し探せばすぐに矛盾にぶつかる。しかし、これはきっと、先人たちの、少しでも子供に食べてもらいたいという努力の足跡だと思った。そして私は教えに従い、ひとつひとつチャレンジしていった。
幼児食は「楽しく」が鉄則のようで、親はたとえ夜な夜な考えたレシピを元に食事を作り、一口しか食べてもらえなくても「楽しく」食事をしなければならないらしい。親は作りそこなった自分の食事として、音を立てずにカップラーメンを啜る。子育てとは、こんなにも精神力を試されるものだとは、子供を産む前は想像出来なかった。
「幼児食」のレシピをネットで探そうとすると、「離乳食」の時と違って、大人でもおいしそうに見えるものがたくさん出てくる。私だって端から食べるのが難しそうなものに挑戦したりしない。子供が好きそうなものはピーマンよりじゃがいもやカボチャ。食べやすそうなのはスライスされた肉よりひき肉。塩味よりマヨネーズ味やケチャップ味。そんなイメージがあった。どうせなら栄養価の高いものを食べてほしい。親心でそう思ったが、この頃の娘が好んで食べたのは、ナスの味噌汁とウインナーだった。ナスは90%以上が水分だと言われている。栄養があまりないとされる、キュウリやもやしと同等の割合だ。ハムやウインナーなどの加工肉は、塩分や添加物があるのであまり積極的に取り入れない方がいいとは知っていた。
娘はマヨネーズ味のポテトサラダも、ケチャップ味のハンバーグも好きじゃなかった。彩りや見た目がかわいいと子供はよろこぶといい、ネットで見る幼児食は本当にかわいかった。そして、かわいいお皿にのって、キャラクターや動物の形のごはんが載っている。私もお皿を変えてみた。食の進みには関係がなかった。
イベント事があると幼児食界隈は特に賑わう。ひなまつりはちらし寿司をお雛様とお内裏様のかたちにしたり、かわいいレシピで溢れていた。私も物は試しと鮭とキュウリを使ったちらし寿司風おにぎりに、お雛様とお内裏様の顔をつけた。娘は一口しか食べなかった。
しかしこんな私にも救いはあった。娘はパンが好きだった。フルーツも好きだ。そして、納豆が好きだった。ごはんを食べなくてもパンなら食べた。野菜を食べない分はフルーツで賄おう。そして、納豆を食べていればなんとかなると言い聞かせた。
脂質があるのでパン食よりごはん食の方が体によい。フルーツは果糖があるからあげすぎない方がいい。幼児食についての記事を見ているとこれくらいの情報は嫌でも目に入ってくる。しかしそれは、選べる場合だ。なんでもいいから口に入れて欲しい。嫌がらずに食べてさえくれればいい。藁にもすがる思いで食事を出している身からすれば、親が出したいものを出せるというのは、とんでもない幸福だった。
例えば、食事中は、遊んだらもうおしまい。食べなくなったら下げろという人がいる。1日くらい、食べなくても平気だ、と。本当に?本当に下げていいのだろうか?ここで食事を終わりにしたら、娘の体重がもっと減ってしまう。1日くらい、で済むなら苦労はしない。これが1週間、1か月と続くものだったら?ネットの回答者は、娘の体重など知らない。はっきりとした物言いで、さも自分が正しいようなことを言っているが、なんの保障もしてくれないのだ。どこの誰だかわからない回答者に、私は勝手に怒りを覚えた。そんなこと、成長曲線の底辺ギリギリの子供がいたら言えるわけがない。きっと体重に悩んでいないのだろう。満遍なく探したわけでも、質問したわけでもないが、この頃このような回答に出会うことが多かった。私は、先人たちの努力の足跡や意見に、だんだんと耳を塞ぎたくなってきたのだ。
娘が新生児の頃、産後の漠然とした不安からよくネットで新生児のことを検索していたが、不安な時ほどそういうことがしたくなる。そしてそれはだいたい徒労に終わる。あの頃に不安だったことは、今や時間と共に解決し、自分の中での折り合いがついている。検索し続けてもあまりいいことはないということを、私はわかっていたのに繰り返していたのだ。
一部の人しか利用していなかった頃とは違い、今はインターネットで調べればだいたいのことが解決出来るような気がしてしまう。有益な情報ももちろんあるのだが、知りもしない赤の他人の意見に悩まされるのは間違っていると思った。こういう人もいるんだなぁ、とそれくらいの感想で終われないときは、人の意見など見るべきではないのだ。この時の私がずっと探していたのは、しつけとして一見正しそうな、食べなければ下げろという回答ではなく、食べないと大変だよね、体重も増えないと心配だよね、という同調の言葉だけだったのだ。
2歳を過ぎたころ、保健師さんの話をきく機会があったのだが、その時に食べないことを話すとその保健師さんは、「わかる。私3時間かかってた時期あったわ」と言っていた。私は救われた気がした。私が欲しかったのは「わかる」の一言だったのだ。
このように、育児をしていると、意見なんていらないと思う時がある。育児の悩みは、多種多様で、その子供の個性だったりすることもある。そういう時に一番欲しているのは、意見や回答ではなく、そうだよね、大変だよね、という同調なのだ。他人の意見にふりまわされることなく、自分の強い意志を貫いて育児が出来るならそれに越したことはないのだが、未熟な私は、きっとこれからも不安な気持ちからインターネットの見解を求めてしまうことがあるのだろう。検索して最善を探すことは、決して悪いことではないと思う。きっとそこには、正しいこともたくさんある。ただ、成功者は輝かしい成功者であるが、自分はまだ成功者ではないのだ。「いいなぁ」、「羨ましいなぁ」、そう思いながら、食べて貰えなかった食事を捨てるのは、とても辛い。成功者と比べるあまりに自分が追いつめられてしまうようでは、「楽しい」食事とは程遠いのではないだろうか。
食事を終わらせるか、続けるべきだったか、この問題の正解はいまだわからない。そしていつわかるのかもわからない。自分の子供にはいっぱい食べて元気に大きくなってほしい。親として望むのは、ただそれだけなのだ。いつか正解にたどり着けなくても、私は私に「そうだよね」と言ってあげたいと思う。
それもそのはずで、「幼児食」とは、ひどく大きく括った名前なのだ。「離乳食」が、5ヵ月から1歳半の約1年間の食事のことであるのに対し、「幼児食」は、約4年間の食事のことだ。31歳から35歳の4年間で肌に張りがなくなったとか疲れやすくなったとかそういう些細な変化とは違うのだ。幼児の4年間は、歩くのが精いっぱいだった赤ちゃんが、幼稚園を卒園する頃には身支度を自分でできるまでに成長している。自分でごはんが食べられるし、何ならサラダを作ったり電子レンジで温めることもできる。幼児の4年間とは、なんと感動的なものだろう。その、感動的な成長を見せる4年間の食事を、「幼児食」と呼ぶ。斯くして、私は長くて広い「幼児食」の世界に突然置き去りにされた。ドロドロに素麺を茹でていたころが懐かしい。
思えば出産のときもそうだった。一番大変だった「いきみ逃し」の方法は母親学級では教えてくれなかった。予定日の近い人たちが集まって「お近くなんですか~」などと喋った記憶しかない、母親学級。意味があったのか甚だ疑問であるが、私が出産したのはコロナ禍になる前だったので、母親学級はあったのだ。前駆陣痛でも吐くほど痛いとか、本陣痛で息を詰めたら怒られるとか、もう少し教えてくれてもよかったのではないか。何せ一番参考になったのは助産師さんが言っていた、今のうちにラーメン食べといた方がいいですよ、だ。
私が妊娠中にラーメンを食べにいったときのことである。隣の席で抱っこ紐の中で眠っている赤ちゃんを抱えたままラーメンを食べている女性を見たとき、何もわかっていない私は、そうまでして食べたいのだろうか?と思ったことがあった。しかし、産後にはそうまでしてラーメンを食べたい時がある。ただ、私は娘の寝るタイミングとラーメンを出されるタイミングを計る自信がなく、チャレンジしたことはなかったが、もう少し気合が入っていたらやってみたかった。授乳の合間に食べるサッポロ一番もおいしいが、カウンター席で食べる濃厚鶏白湯ラーメンは特別なのだ。助産師さんの助言は的確だった。
つまり、何が言いたいのかというと、一番大事なことはあまり教えてもらえない。壁にぶつかってから考えろということだろうか。私が一番よくわからなかったのは、離乳食は完了しており、断乳も済んでいるが、これは「幼児食」なんだろうか?という時期である。つまり「離乳食」から「幼児食」への移行期なのだが、これも一応「幼児食」の括りになっている。実際、1歳半の食べる幼児食と、5歳11ヵ月の子が食べる幼児食は、全く違うのだが、全部「幼児食」なのである。
もちろん、離乳食が終わったからと言っていきなり大人と同じものが食べられるようになるとは思わない。しかし、レシピを見ても、これはどの段階の「幼児食」なのかわからない。うちの子はまだ食べられなさそうだけど、もう少ししたら、挑戦した方がいいのだろうか、それともまだ早いのだろうか。わからない。
月齢で見てすぐにわかる離乳食の手厚さに慣れきっていた私は大いに戸惑った。幼児食とはいえ、移行期は離乳食とあまり変わらないメニューの方が食べやすいらしい。薄味で、バランスよく、楽しく……広大な「幼児食」の草原にも決まりがあり、それを守るには努力が必要だった。食べむらもあるからあまり気にしない方がいいと言いながらも、この時期の食事は子供にとってとても大切な時期です、とプレッシャーをかけてくる。しかし私ひとりの努力ではどうにもならないことがあった。娘の気持ちである。
私は戸惑いながらも、手づかみや、噛みやすさに対応したレシピに挑戦した。しかし、おやきやグラタンはほとんど食べてくれず、「お野菜たっぷりけんちんうどん」はうどんしか食べず、「細かく刻んで食べやすく!お野菜チャーハン」は端から嫌がった。結果、うどんは素うどん、チャーハンは納豆チャーハンしか出せなくなった。
この頃の私は、納豆が心の拠り所だった。納豆さえ食べてくれればいいと思うことにした。野菜も肉もほとんど食べなくても、納豆を食べくれればいいことにした。この、納豆崇拝は、この後もしばらく続くことになる。
現在も、「幼児食」の旅は続いている。はじめた頃の心細さはないものの、いまだにわからないことだらけである。しかし、道半ばで振り返ると、一番戸惑っていたのはやはり「離乳食」と「幼児食」の移行期だったなと今は思う。おそらく「幼児食」における幅広さは、子供の成長に合わせるべきもので、食べられる子は食べればいいという先人たちの優しさからきたものなのではないだろうか。
「離乳食」の達成感を胸に勢いよく飛びだしたはいいが、果て無く広がる「幼児食」の草原を前に、途方に暮れていた。しかしここにも「果て」はある。いつかくる幼児食の終わりの日に、私は何を思うのだろうか。
むちむちだった赤ちゃんは、歩きはじめると、少しずつ赤ちゃんではなくなっていった。よく動き、よく笑った。1歳6か月の検診で、小児科の先生が「よく動きますか?」と聞かれた。この時期はよく動くようになるので体重があまり増えなくなることがあるそうだ。そう、このあたりから雲行きが怪しくなってきた。生まれたときから身長も体重も平均値だった娘の、体重だけが成長曲線の下の線ギリギリになっていった。
実際に娘はとても元気で、発達の問題もなく、精神も身長もスクスクと育っていった。ふわふわでおぼつかなかった足元が、すらりと伸びてどこまでも走っていけそうに見えた。今思えば、元気ならばなぁいいか、と済ませてもよかったのかもしれない。しかし、親心はそうはいかないのだ。私はスマホを片手に、娘に食べてもらえる工夫を考えだす。
実際、幼児がごはんを食べないのには理由があり、集中できない、うまく食べられない、味や食感が好きじゃない、ただ単に食べたくないだとか、色々な理由があるのだろうが、親側の意見も、お腹がすけば勝手に食べるだとか、食事は決まった時間に摂るべきだとか、少し探せばすぐに矛盾にぶつかる。しかし、これはきっと、先人たちの、少しでも子供に食べてもらいたいという努力の足跡だと思った。そして私は教えに従い、ひとつひとつチャレンジしていった。
幼児食は「楽しく」が鉄則のようで、親はたとえ夜な夜な考えたレシピを元に食事を作り、一口しか食べてもらえなくても「楽しく」食事をしなければならないらしい。親は作りそこなった自分の食事として、音を立てずにカップラーメンを啜る。子育てとは、こんなにも精神力を試されるものだとは、子供を産む前は想像出来なかった。
「幼児食」のレシピをネットで探そうとすると、「離乳食」の時と違って、大人でもおいしそうに見えるものがたくさん出てくる。私だって端から食べるのが難しそうなものに挑戦したりしない。子供が好きそうなものはピーマンよりじゃがいもやカボチャ。食べやすそうなのはスライスされた肉よりひき肉。塩味よりマヨネーズ味やケチャップ味。そんなイメージがあった。どうせなら栄養価の高いものを食べてほしい。親心でそう思ったが、この頃の娘が好んで食べたのは、ナスの味噌汁とウインナーだった。ナスは90%以上が水分だと言われている。栄養があまりないとされる、キュウリやもやしと同等の割合だ。ハムやウインナーなどの加工肉は、塩分や添加物があるのであまり積極的に取り入れない方がいいとは知っていた。
娘はマヨネーズ味のポテトサラダも、ケチャップ味のハンバーグも好きじゃなかった。彩りや見た目がかわいいと子供はよろこぶといい、ネットで見る幼児食は本当にかわいかった。そして、かわいいお皿にのって、キャラクターや動物の形のごはんが載っている。私もお皿を変えてみた。食の進みには関係がなかった。
イベント事があると幼児食界隈は特に賑わう。ひなまつりはちらし寿司をお雛様とお内裏様のかたちにしたり、かわいいレシピで溢れていた。私も物は試しと鮭とキュウリを使ったちらし寿司風おにぎりに、お雛様とお内裏様の顔をつけた。娘は一口しか食べなかった。
しかしこんな私にも救いはあった。娘はパンが好きだった。フルーツも好きだ。そして、納豆が好きだった。ごはんを食べなくてもパンなら食べた。野菜を食べない分はフルーツで賄おう。そして、納豆を食べていればなんとかなると言い聞かせた。
脂質があるのでパン食よりごはん食の方が体によい。フルーツは果糖があるからあげすぎない方がいい。幼児食についての記事を見ているとこれくらいの情報は嫌でも目に入ってくる。しかしそれは、選べる場合だ。なんでもいいから口に入れて欲しい。嫌がらずに食べてさえくれればいい。藁にもすがる思いで食事を出している身からすれば、親が出したいものを出せるというのは、とんでもない幸福だった。
例えば、食事中は、遊んだらもうおしまい。食べなくなったら下げろという人がいる。1日くらい、食べなくても平気だ、と。本当に?本当に下げていいのだろうか?ここで食事を終わりにしたら、娘の体重がもっと減ってしまう。1日くらい、で済むなら苦労はしない。これが1週間、1か月と続くものだったら?ネットの回答者は、娘の体重など知らない。はっきりとした物言いで、さも自分が正しいようなことを言っているが、なんの保障もしてくれないのだ。どこの誰だかわからない回答者に、私は勝手に怒りを覚えた。そんなこと、成長曲線の底辺ギリギリの子供がいたら言えるわけがない。きっと体重に悩んでいないのだろう。満遍なく探したわけでも、質問したわけでもないが、この頃このような回答に出会うことが多かった。私は、先人たちの努力の足跡や意見に、だんだんと耳を塞ぎたくなってきたのだ。
娘が新生児の頃、産後の漠然とした不安からよくネットで新生児のことを検索していたが、不安な時ほどそういうことがしたくなる。そしてそれはだいたい徒労に終わる。あの頃に不安だったことは、今や時間と共に解決し、自分の中での折り合いがついている。検索し続けてもあまりいいことはないということを、私はわかっていたのに繰り返していたのだ。
一部の人しか利用していなかった頃とは違い、今はインターネットで調べればだいたいのことが解決出来るような気がしてしまう。有益な情報ももちろんあるのだが、知りもしない赤の他人の意見に悩まされるのは間違っていると思った。こういう人もいるんだなぁ、とそれくらいの感想で終われないときは、人の意見など見るべきではないのだ。この時の私がずっと探していたのは、しつけとして一見正しそうな、食べなければ下げろという回答ではなく、食べないと大変だよね、体重も増えないと心配だよね、という同調の言葉だけだったのだ。
2歳を過ぎたころ、保健師さんの話をきく機会があったのだが、その時に食べないことを話すとその保健師さんは、「わかる。私3時間かかってた時期あったわ」と言っていた。私は救われた気がした。私が欲しかったのは「わかる」の一言だったのだ。
このように、育児をしていると、意見なんていらないと思う時がある。育児の悩みは、多種多様で、その子供の個性だったりすることもある。そういう時に一番欲しているのは、意見や回答ではなく、そうだよね、大変だよね、という同調なのだ。他人の意見にふりまわされることなく、自分の強い意志を貫いて育児が出来るならそれに越したことはないのだが、未熟な私は、きっとこれからも不安な気持ちからインターネットの見解を求めてしまうことがあるのだろう。検索して最善を探すことは、決して悪いことではないと思う。きっとそこには、正しいこともたくさんある。ただ、成功者は輝かしい成功者であるが、自分はまだ成功者ではないのだ。「いいなぁ」、「羨ましいなぁ」、そう思いながら、食べて貰えなかった食事を捨てるのは、とても辛い。成功者と比べるあまりに自分が追いつめられてしまうようでは、「楽しい」食事とは程遠いのではないだろうか。
食事を終わらせるか、続けるべきだったか、この問題の正解はいまだわからない。そしていつわかるのかもわからない。自分の子供にはいっぱい食べて元気に大きくなってほしい。親として望むのは、ただそれだけなのだ。いつか正解にたどり着けなくても、私は私に「そうだよね」と言ってあげたいと思う。
最近になってわかったことがある。給食を残してきた娘に、「おいしくなかったの?」と聞いたことがあった。娘は「普通だった」と答えた。私は驚愕した。
娘の判断基準に、「おいしい」と「おいしくない」の2つがあるのは知っていた。「おいしくない」のは「好きじゃない」、だから食べない。私は、娘の言う「おいしくないから食べない」は理解出来ていたが、まさか「普通」も食べないカテゴリに入っているとは思っていなかったのである。未だに1度も給食を完食出来たことがないことに納得がいった。娘にとって食事は、「おいしいから食べる」だったのである。たしかに「普通」のものより「おいしい」ものを食べたい気持ちは私にもわかる。だからといって残す理由になるとは思っていなかった。「おいしい」以外にも「栄養がある」とか、「大きくなる」とか、食事をとる理由の指導がもっと必要だと思った一件であった。
このように、食べない理由にはいろいろあり、私は試行錯誤の結果、頑張りすぎるのをやめた。まず、他所の家の幼児食を見るのをやめた。比べることをやめたら、少し気持ちが楽になった。そして、娘のためだけに料理をするのをやめた。大人のものの取り分けを中心にしたのである。
もちろんこれは、娘の幼児食の段階が少し進んだから出来たことである。つまり、私は解決策を見いだせないまま、ただ時が少し進んだのだ。つまり新生児期の時の不安や悩みと同じだったのである。結局、どんなに頑張っても、私に出来ることはわずかであり、時間が解決してくれるのを待つしかないことも多いのだ。こういうことがあると、育児ってままならないなと思う。だからと言って何もしないというのもなかなかできないので、私はまたウンウン悩みながらどうにかしようと藻掻くのだろう。そして悩み疲れた頃、時間が解決してくれるのである。本当に、育児とはままならないものである。
例え悩みの渦中にあっても、毎日は慌ただしく過ぎる。娘の身長はまた少し伸びて、出来ることも増えた。体重は成長曲線ギリギリのまま、増えたり減ったりを繰り返していた。
この頃、1章で挙げた、滋賀のベビーフードと同じくして、お守りになったのはもうひとつある。「アンパンマンのミニスナック」だ。娘が1歳になりたての頃は、まだコロナ禍ではなく、夏には帰省が出来ていた。その時も、何か買っておくものある?の義母の言葉に、「アンパンマンパンさえあれば大丈夫です」と答えたものだ。実際帰省先でも、アンパンマンパンだけはモリモリ食べた。しばらくすると飽きてしまったが、私はきっとずっとアンパンマンのことを忘れない。
しかし逆の例もある。アンパンマンといえば、少し期待していた「アンパンマンカレー」というものがある。初回は物珍しさからパクパク食べたものの、2回目からはダメだった。私の作ったカレーももちろんダメなのだが、その後給食のカレーを残してきたと聞いた日に、あぁ、カレーが好きじゃないんだな、と納得することにした。唯一食べたのはディズニーシーに行った時のナンで食べるカレーなのだが、その時も後半はカレーはいらないと言ってナンだけ食べていた。カレーが苦手だと今後の人生苦労するのではないかと心配になるのだが、もしかしたらどこかのタイミングでカレーのおいしさに気づく日がくるかもしれない。
そう、早く気付くといいなぁと思うのだ。この世にはおいしいものがたくさんある。私を含め、私の周りの大人たちもみんな食べることが好きだ。私は子供の頃からなんでも食べる子だったので、今でもあまり後悔はないのだが、ひとつあるとすれば牡蠣である。子供の時牡蠣が苦手だった私は、成人して生牡蠣を食べたときに感動した。なんでこんなにおいしいものに気付かなかったのだろう、と思った。その後、大当たりして一晩中吐いて点滴をする事態になっても、半年後にはまた生牡蠣を食べた。それくらい私自身は食欲に突き動かされている人生なので、つい、食べられない人に対して、人生損してるなぁと言いたくなってしまう。食べられない方からすると、余計なお世話なのはわかっているのだが、食べられないものがあまりない人間には、どうしても食べられない人の気持ちがよくわからないのだ。
娘のこの先の長い人生で、食べられる人になるのか、このまま偏食の人生を送るのかはわからないが、親心としては、食べられる人になってもらいたい。でも100歩譲ったら偏食でもいい。偏食でも元気でさえいてくれればいい、そう考えないと、幼稚園で貰ってきた身体測定の結果表を見て頭を抱えてしまうからである。平均をだいぶ下回る体重を見て、例え偏っていても何かしら食べてさえくれればいいと切に願うのである。
しかしこれでも、3歳を過ぎた頃から、食べられるものは増えたのだ。まずお寿司に挑戦したことで、おいしくて好きなものが増えたのだ。生の魚に関しては、いつから食べさせるか、親の判断に悩むところなのだが、我が家は3歳から食べはじめた。娘はマグロとイクラで、お寿司のおいしさを知ったのだ。他のネタにも興味深々で、親が食べているものも欲しがるようになった。子供が好きそうなエビマヨは食べないのにお寿司のエビは食べる。硬いから無理だろうと思っていたタコやイカも慎重によく噛んでからおいしそうに飲み込んだ。そのおかげか、焼いた魚も食べるようになってきたのである。
さらに、「おいしいお肉だよ」といくら言っても食べなかった牛肉も、なぜか赤身のステーキから食べられるようになった。もしかしたらよく噛まないと食べられないような、噛み応えのある食べ物が好きなのかもしれない。そう考えると、今まで食べやすいように柔らかくしてきた努力は逆効果だったということになるが。
味付けに関しては、薄味過ぎると食べてくれなくなってしまったため、今では大人とほとんど変わらないものを食べている。蕎麦つゆなどはさすがに大人よりは薄くするが、炒め物や、煮物に関しては早々に諦めてしまった。例えばコショウが辛いかなと思って別々に作ると、コショウがかかっている方を欲しがるのが子供というものである。だったら最初からコショウを少なめにして、大皿で出すことにしたのだ。これを「諦め」とも言う。
ここで「幼児食とは」の話に立ち返るが、幼児食の鉄則が「楽しく食べる」ことならば、私は幼児食が完了するまでに、食べることが好きになって欲しいと思う。しつけも決まりももちろん大事だが、「好き」に勝るものはないと思うのである。
世界にはおいしいものがたくさんあって、いろんなものを食べると自分の人生も広がっていくということを、私は娘に教えてあげたい。食べられなかったら、少しでも食べられるものを、たくさん食べられそうなら、食べられるだけあげたい。ネットの記事に翻弄されることなく、身体測定の結果にくよくよせずに、私に出来ることを頑張りたい、そう思うのだ。
プリキュアにハマった今がチャンスとばかりに挑戦した「プリキュアカレー」も、しっとり柔らかく焼いたハンバーグも、いまだに娘は食べない。何が食べたい?と聞くと「タコ」と答える。そんな娘の人生が、ほんの少しずつでもこの先に広がっていくことを、心から願っている。きっと今は「いつか」のために、食事を楽しく摂るときだ。来るべき「いつか」のために、好きなものを好きなだけ食べて、大きくなってくれたらいいと思う。