2021年12月9日
発達障害
発達障害という言葉を聞いたことはありますか?ここ最近では、メディアに取り上げられることも増え、耳にしたことがある方が多いかもしれません。
人は誰もが自分自身に関係のない言葉に対しては、現実味を感じないことが多いように思います。発達障害という言葉も、実際に自分の身近にいないとなると「大変そう」「かわいそう」といった抽象的なイメージしか浮かばない、というのが現実でしょう。
私には、自閉スペクトラム症の息子がいます。とてもとても可愛い息子ですが、発達障害だと診断されたときの衝撃を今でもしっかりと覚えています。そして、今まで発達障害がどこか他人事だったことを痛感した瞬間でもありました。私は息子を出産するまでは、幼稚園教諭として働いていました。そこで様々なハンディキャップを抱えたお子さんと関わる機会がありましたし、知識もそれなりに学ぶ機会がありました。そんな私も、まさか我が子に発達障害があるとは思ってもみなかったです。
そんな息子と私の成長記を読んでいただけると幸いです。
自閉スペクトラム症(通称:自閉っ子)の息子は、現在6歳の幼稚園年長で1歳の弟がいる二人兄弟の兄です。どちらかというと温厚でおっとりしており、マイペースな性格をしています。そんな息子が自閉スペクトラム症と診断されたのは年少の頃でした。それまでも親としては息子と接していて疑問に思うことがありましたが、様々な相談機関をスルーし、やっと診断されたのです。あまり子育てで大変な思いはしていないと感じていましたが、今になって思い返せば、自閉っ子の特徴だったのでは?ということが幼少期から少しありました。
よく自閉スペクトラム症の子は、乳児期から特徴が出てくることがあるようですが、私の息子はほぼそういったことがない乳児期を過ごしていました。
首の据わりは3ヶ月、寝返りは5ヶ月、一人座りは7ヶ月、つかまり立ちは8ヶ月、はいはいは10ヶ月(ずりばいは8ヶ月から)、一人歩きは1歳1ヶ月と、ほぼ発達基準の範囲内でした。笑いかけると笑顔を返してくれましたし、抱っこも大好きで、目が合わない・こちらの指示が伝わらないといったこともありませんでした。自治体の健診も1歳半まですべてクリアし、育児に関する悩みもこの頃はそれほどなかった気がします。栄養状態も良く、まさか自分の子供が自閉っ子だとは夢にも思いませんでした。
強いていえば、人見知りが6ヶ月頃から始まり、私と夫以外の人に抱かれるとよく泣いていました。しかし我が家は両実家とも遠方にあり(夫が転勤族)当時は3人暮らしだったことと、抱っこされなければ泣かないことが多かったのでさほど気にはとめていませんでした。また、夜泣きは多い方だったかもしれません。完全母乳で育児をしていましたが、断乳する1歳2ヶ月まではだいたい3時間ごとに泣いていましたし、一度泣いたら2時間ほど寝ないといったことも何度かありました。しかしこれもまた周りとそこまで大差なかったことから、それほど気にしていなかったのです。むしろ子育てしている実感があり、夜泣きすら愛おしくて毎日幸せいっぱいの育児ハイになっていたので、苦に思っていませんでした。
喃語が多く、1歳前には私のことを「あっぱー」(お母さん)と呼ぶようになっていた息子。言葉の習得はおそらく早いほうだったと思います。初めてはっきりした言葉を発したのは1歳1ヶ月の時、お散歩中に近くを通った犬を見て「いぬ」といいました。あまりにもはっきり発音したので驚いたとともに、聞き間違いかと思っていましたが、再度違う犬を見て「いぬ」と言ったのです。それからどんどん言葉が増え、1歳半健診の時に問診票に記入した言葉の数は30個以上でした。自閉スペクトラム症の子は発語が遅れることが多いようですが、息子はそういったことはありませんでした。
よく言葉を話す息子と一緒にいるのは楽しくて、毎日充実していました。成長には個人差があることはもちろん理解していますが、言葉でやりとりができるようになってきて、周りの人に「お話し上手だね」と言ってもらえることが、私自身も褒められているような気がしてすごく嬉しかったのを覚えています。
これまで順調に子育てをしていた私ですが、ある時ふと違和感があり不安を感じる時がありました。1歳半を過ぎて、近くの幼稚園で開催していた週一回の未就園児教室に参加した時です。児童館や地域の子育て広場は、赤ちゃん期から行っていたのでスムーズでしたが、1歳過ぎに初めて行った未就園児教室ではものすごく泣きました。それはもういわゆるギャン泣きで、抱っこから離れられずにいました。はじめは、そのうち慣れるだろうと思っていましたが、何度か通っても全く慣れずいつも私の膝の上…。結局息子が泣かずに未就園児教室に通えるようになったのは、2ヶ月ほどかかりました。母子分離がない親子教室だったため、慣れるまでに時間がかかることと異常な泣きっぷりに違和感がありました。
こういう子もいるのでは?と我が子でなければ寛容に見られるかもしれません。実際に当時周りの人からは「慎重なんだね」「甘えん坊で可愛いね」といった言葉をかけてもらっていました。しかし、親だからこそ、我が子だからこそこの違和感があったのだと思います。それから息子は、新しい場所ではよく泣き、お友だちの家や義実家などでも慣れるまで私のそばから離れられないという状態が続きました。
初めての場所だとよく泣く息子は、あらゆる場所で泣くようになりました。子どもが楽しめる遊具がある施設や、いつも行かない公園などでも泣いて遊ばないことが増えてきました。親としては、楽しんでほしい一心で連れて行っても、ギャン泣きで遊ぶどころではないことが続きました。そうなると、こちらも少しずつ心がすり減っていきます。どうして他の子は楽しそうなのに、うちの子だけ泣くのだろう…焦りとイライラが募ります。公園に行ったはいいものの、あまりに泣くので5分ほどで帰ったことも何度かあります。滑り台やブランコなどの遊具も怖がって遊べないことが多く、我が子への違和感がどんどん膨らんできた時期でもありました。
そんな時期に、屋内施設のイベントで絵本の読み聞かせに参加しました。息子は絵本がとても好きで、赤ちゃん期からよく絵本を読んでと訴えてきていましたし、保育士さんの読み聞かせも喜んでくれるのではと思っていました。しかし、いざ読み聞かせが始まると、私の膝の上でずっと泣いていました。もちろん、そんなときもあると言われたらそうかもしれません。しかし、他に誰も泣いている子がいない状況でうちの子何か違う?他の子とちょっと違うのでは?と、ふとした違和感の積み重ねが疑問に変わった瞬間でした。
結局この敏感さは、かなり良くなっては来ましたが、年長の今でも初めての場所やイベントでそわそわして気持ちが落ち着かないことがあります。
上記のような敏感さでは、もしかしたら発達障害を疑わないこともあるかと思います。ただ慎重な性格なだけ、実際にそういった子もいるでしょう。しかし、親がもし何か違う?と思ったときは、だいたい勘は合っている気がします。それだけ、我が子と接する時間が誰よりも長く、いろんな姿を見ているからこそです。少しの違和感が、我が子の特性に気がつくチャンスなことがあるということを、私は身をもって知りました。こういった違和感から、息子に当てはまることを検索しては一喜一憂するという時期に突入します。
何の問題もなく育っていた乳児期を経て、少しずつ違和感を覚えることが増えてきた幼少期。もしかしてこの子には何かあるのではないか?という気持ちと、思い過ごしであってほしいという気持ちで、親としては最も浮き沈みがあった期間でした。敏感で、周りの子が楽しんでいることも大泣きして拒否をする姿は、今思い出しても心がぎゅっと締め付けられます。そんな息子に対する周りの反応に、良くも悪くも私は翻弄されました。
今回は、周囲からの息子への言葉や親としての私の気持ちについて記したいと思います。
1歳半を過ぎて、少しずつ集団を経験し、私にしがみついて泣くことが多かったときに一番周囲から言われていた言葉が「慎重なんだね」です。これについては、私自身も息子に対して慎重な子だと思っていましたし、誰かに言われても嫌な気持ちになることはありませんでした。
人見知りがあったこともあり、よく会う友達にも慣れるまで時間がかかったので、特にママ友から多く言われていたかと思います。未就園児教室でもよく泣いていたので、「慎重なんだね。そのうち慣れるだろうね」といろんなママに言ってもらっていました。ものすごい声量でなく息子に対して、そのように優しく声をかけてくれたことは、すごく嬉しかったです。
ただ、「もっといろんな所に行けば良いよ」「こんなんで将来どうするの」といった言葉をもらうことがあり、少しムッとした記憶があります。ほぼ毎日児童館等に行っているから経験がないわけではないし、今から将来のこと言われても…とモヤモヤしました。
新しい場所に行って息子が泣いたときには、その場にいる人に私の方から「この子は慎重で~」と自分から伝えて予防線を張るようになっていました。周りで誰か泣いていても、そんなに気にならないのに、我が子が泣くと周りに迷惑がかかっていないか、変な目で見られていないかを気にしていた時期でもあります。
息子が1歳半頃は小さな街に住んでおり、子どもが少ないところでした。そのお陰か、児童館や未就園児教室で会うお友だちとはすっかり顔見知りになり仲良くなっていました。ありがたいことに周りに恵まれ、よく泣く息子にもあたたかく接してもらいました。息子の敏感なところも受け入れてくれて、慣れるまで時間がかかることも理解してくれていました。
敏感なところはあるものの、言葉や運動の発達に遅れがみられなかったので、この頃はまだ息子の発達障害を確信してはいませんでした。実際に、1歳半健診ではよく泣いていたものの、健康です!と太鼓判を押されました。心配なことはないかを聞かれ、良くなくことを相談しました。しかし、保健師さんは「息子さんの場合は性格が大きい。発達は順調だから問題ない」と言っていました。自治体の子育てサロンでよく接していた保健師さんだったこともあり、息子のことも日頃から見てくれていたため、良かったとほっとしたのを覚えています。
ただ、今になって当時のことを思い出すと、健診ではほぼ泣いていて指差しや積み木を積むことも拒否しました。担当の保健師さんが、子育てサロンで息子がどちらもできるところを見て覚えていてくれたことでパスしましたが、この時点で経過観察になることもあるかと思います。単語をよく話していたことも、健診で引っかからなかった理由のひとつでしょう。
親にとって自治体の健診は、我が子が健常に育っているか試される場所のように感じます。自分の子どもに対して何の心配も不安もないという親はほぼいないでしょう。実際に私も、息子の発達に疑問を抱く前の健診でもやはり緊張しました。そして、お医者さんや保健師さんの言葉にものすごく気持ちを揺さぶられます。健診でかけられた言葉は、普段回りの人からかけられる言葉より記憶に残りやすいことが多い気がします。
息子が2歳半の時、住み慣れた街からの引っ越しを経験しました。夫の転勤に伴い新しい場所に行くことになり、知り合いもいなければ行ったこともない街に転居しました。そこは、市街地から外れたのどかな場所で、子どもの数がとても少なく、子育てサロンなど未就園児の集まる場所も月に1度しかありませんでした。児童館の開放もなかったので、その月に一度の集いに行かなければ、他の子と会う機会がないことが不便でした。
引っ越しをしても、息子はこちらが思うより戸惑うこともなく、新しい家にもすぐに慣れていました。順調に新生活が始まったこともあり、早く他の子と息子を関わらせてあげたいと思い、月に一度の集いに参加しました。そこは、福祉施設のホールを使って開催され、保健師さんが楽しい遊びをしてくれていて、親子で参加する場所でした。敏感な息子は、やはり初めての場所で初めての保健師さんに人見知りをし、話しかけられても泣いていました。「随分泣くね。あんまり泣く子いないんだけどね」と言われ、悲しさと恥ずかしさで気まずい思いになりました。周りは知らない親子が数組で、新参者の私たち親子を少し遠くから眺めていて、こちらから声もかけにくい状況でした。
月一の集いに2回ほど行き、それでも頻度が少ないこともあってか息子は慣れず行き渋るようになりました。そこは強制ではなく欠席連絡もいらない集まりだったので、思い切って休んで息子と二人で過ごしていました。すると保健師さんから電話が来て、なぜ休んだのか、お母さん(私)が働いていないなら来てほしい、泣かないで参加できるようにもっと来て慣れてくれ、と言われました。自由参加なのに連絡がくることで、ものすごく窮屈に感じてしまい、地域によって集まりにも差があることを痛感し、気分が沈んだのをよく覚えています。
その後、その集まりには体調不良ではない限り参加するようにしました。息子も少しずつ慣れてくれて、他の親子と交流も出てきたので、私も前向きに参加できるようになっていったからです。親子共々慣れるまでは集まりの日が近付くのが嫌でしたし、ギリギリまで生きたくない気持ちで悶々としていました。新しい場所に染まるというのはとても難しいことだと身をもって実感しました。
いよいよ息子の発達に不安要素が見られるようになります。新しい街に来て、初めての場所に慣れるまで時間がかかることを保健師さんも知っており、月一の集いの時に相談もしていました。
3歳になってすぐに、3歳健診がありました。問診と歯科検診、保健師さんとのやりとりなどがあったと思います。なんだかいつも以上に緊張し、行くのが怖いとすら思いながら会場に向かったのをよく覚えています。もしかしたら、なにか検査に引っかかるのではないかと怯えていました。
この頃の息子は、敏感でよく泣く・オウム返しをすることがある・回る物が好き、といった特徴が出てきていました。オウム返しは2歳半過ぎから少しずつ出てきて、会話になる時とならない時の差がありました。回る物は、換気扇や扇風機が好きで、お店に入ってどちらかがあれば必ず「あるね!」と嬉しそうに報告してきていました。
それらの心配事に加え、保健師さんとのやりとりで「今日は何で来たの?」という質問に息子は「お友だち~って会いに来たの」と答え、絵カードのハイヒールと閉じた傘を見て答えられませんでした。そこで、経過観察でまた半年後に受診することになりました。
経過観察は正直に言うと覚悟していたので、受け止めていました。しかし、その時に面談をした保健師さん(普段あまり接したことがない方)の言葉に、心がえぐられます。その保健師さんはなんのためらいもなく淡々と「息子さんは人と関わる力がありません」「こんなに心配なことがあるのは異常です」と言い放ちました。その要素があるにしても、そんなにはっきり言われると目の前が真っ暗になり、面談中に涙が出てしまいました。それでも保健師さんは、息子の将来を考えて行動してくれと言って面談が終わりました。ここまで他人に言われると、悲しい・悔しいという気持ちが一気にあふれ出し、声を出して泣きながら息子を連れて帰宅し、しばらく家でも泣いたことを今でも覚えています。
我が子の心配な部分を指摘されるのは、親としては心が痛むことでもあります。特に、発達や性格に関しては、他の人が踏み込むには言い方によってはとても傷付くこともあるのです。今となっては心がえぐられるような保健師さんの言葉も思い出になっていますが、当時はその人にできれば会いたくないとまで思っていました…。いくら仲が良くても、専門の人でも、相手が傷付く言い回しはしないように発言には気をつけようと強く思いました。
三歳児健診で要観察になり、半年後にもう一度受診することになった息子。今まで感じていた疑問や悩みが、結果として突き付けられたのは初めてのことでした。敏感でよく泣き、会話の成り立ちが少しぎこちないことを指摘され、保健師さんの毒舌を浴び、メンタルがボロボロになった母でしたが、落ち込んだままではいられませんでした。少しでも息子のためになるなら!と思い立ち、できることを模索していきました。
発達障害を確定するには、小児科や児童精神科を受診する、発達検査を受けるなどの方法があります。幼稚園教諭をしていた時に得た知識はこのときに役立ちました。私は三歳児健診の翌日、保健師さんに連絡をして発達検査を提案しました。もし発達障害であれば、早く療育を受けた方が伸びしろが増えて、将来の選択肢も広がるだろうということを知っていたからです。
当時住んでいた街では、児童精神科がある病院が一カ所しかなく、地域の保健センターにいる臨床心理士さんによる発達検査の法が早く予約が取れることも下調べ済みでした。保健センターでの発達検査は、保健師さんからの紹介でなければ受けることが出来なかったこともあり(自治体によります)取り次いでもらうために連絡をしました。
しかし、保健師さんは「そんなに我が子を障害児にしたいの?」とはじめは冷たく言い放っていました。それでも療育の効果などを伝えて説得し、やっとのことで発達検査まで繋げてもらいました。
三歳児健診からちょうど二ヶ月後、3歳2ヶ月の時に発達検査を受けました。本来は母子分離で受ける検査ですが、はじめての場所にはじめての人と二人きりで、泣き叫んで拒否した息子は私が部屋の端にいる状態で発達検査を受けました。
内容を記載してはいけないので詳しくは書けませんが、家でやったことがない遊びも多く、ハラハラしながら見守っていたのを覚えています。息子は大好きな乗り物などにうまくつられて、時々落ち着かないながらもなんとか2時間ほどの検査を終えることが出来ました。
発達検査の結果、今のところ特に異常はなく、敏感さは性格の範囲とのことでした。また、会話のぎこちなさは年齢相応との判断で、発達障害に当てはまりはしないと結果が出たのです。
私は正直に言うと、この結果にはものすごく安心しました。この子はもっとたくさんの経験を積めば、年齢を重ねれば、今心配していることが改善してくる!健常児なんだ!と保健師さんに早く「大丈夫でしたよ」と余裕の笑顔で結果を伝えたいと最低なことまで考えました。
実際にはこの一年後、息子は自閉スペクトラム症の診断がおります。この時期は発達検査で安心してしまい、母の私が地に足つかないふわふわした気持ちで息子に接してしまっていた時期でもあります。
発達検査の時に臨床心理士さんに悩みを聞かれ、集団を経験する場が少ないことを伝えました。そこで、発達に心配がある子やグレーソーンの子が集う週一回のサークルがあることを教えてもらいました。発達検査で異常なしでも、不安なことがある子は参加できると聞いてすぐに申し込みました。
息子にしたら、以前住んでいた時に参加していた未就園児教室以来の定期的な集団です。母としては場所見知りと人見知りが不安でしたが、いざ行ってみると息子は泣くことなく参加できました。
そこは、保育士さんやボランティアの方など大人の人がたくさんいて、皆で参加している母子と関わってくれるサークルでした。人見知りするだろうと思っていた息子は、予想に反して活動にも参加し楽しんでいました。母子分離がないこともありますが、母としては楽しんでくれる集団の場ができたことに心底ほっとしたのを覚えています。
サークルは、幼稚園入園までの場所だったので、半年ほどのみ通いました。それでも、週に一回とはいえ今でも濃密で忘れられない楽しい場所になっています。
はじめは泣くことはなくても、緊張していたり、私の後ろに隠れることもあった息子ですが、慣れてくると独特な姿を見せてくれるようになりました。朝の体操では先生が持っているタンバリンを必ず欲しがる・ボランティアさんのことを下の名前にさん付けで呼ぶ(祖父母世代の方々でひらがなの名札をしていました)・お友だち同士遊んでいるところには入っていかない、など気になるところが出てきたのです。タンバリンに関しては、欲しがることがルーティンのように見えましたし。ボランティアさんのことを名前で呼ぶ子は一人もおらず保育士さん達も名字で呼んでいたので馴染みがありませんでした。今思えば、こういった周りとのズレは息子の特性だったのだろうと納得できます。当時は、発達に異常もないし、なぜ微妙に周りと違ったことをするのだろう?と少し苛立ちさえ感じていました。
息子の地味なへんてこ具合は、結局サークルを卒業するまで続きました。毎回楽しかったのですが、なにか周りと違うことをするのではと、ハラハラしながら出席していたのを覚えています。
サークルでは、いろんな子がいました。常に動いていたい子、他害がある子、言葉があまり出ていない子、息子のように敏感な子、そして健常な診断がおりている子です。お母さん達は月一回サークルの最後に子ども達とは別室で悩みを相談し合う懇親会がありました。参加者は20名ほどですが、みんな悩みはそれぞれで、悩んでいるのは自分だけではないことを実感して心強かった記憶があります。
よく他のお母さんに、息子がおとなしくていいねと言われました。私としては、こんなに敏感でどこに行くにも覚悟がいるのはしんどいと思っていましたが、特に他動や他害がある子のお母さんからはいつもうらやましいと思ってもらっていたのです。
みんな我が子の発達のことで悩み、周りと比べては落ち込む、を繰り返しているのだなと改めて思いました。少しでも出来ないことや不得意なことがあると、それしかないような気になってくる時があります。それは自分だけではないと知ることが出来たのもこのサークルのお陰でした。
サークルで半年間過ごし、息子なりに成長をたくさん感じました。タンバリンは欲しがらなくなり、お友だちの名前も少し覚えることが出来ました。お世話になったサークルとのお別れは寂しいですが、幼稚園入園は私がとても楽しみでした。
自分が幼稚園教諭だったこともあり、はじめは母子分離で泣くだろうと思っていましたし、トイトレも完了していたし偏食もそこまで多くないことから、慣れてからの成長が楽しみでした。
ただ、発達に心配があり発達検査を受けたことを幼稚園側に伝え、何かあれば教えてもらうようにしました。入園前に三歳児健診の再受診をして、泣くことなく健診を終えて異常なしとなっていたので、それも伝えてありました。
いざ幼稚園生活が始まると、予想通り母と離れるときには泣きましたが、割と早く泣き止んで幼稚園に慣れていきました。息子も「楽しかった!」と帰ってきていたので、ほっと胸をまで下ろす毎日だったと思います。
しかし、入園して一ヶ月ほどで担任から連絡がありました。「入園してから集団に入ることができないことが多く、教諭一人を息子専属で付けています。詳しく話したいので、急遽個人懇談の時間を設けさせてください」とのことでした。あぁ、やっぱりな。という気持ちと、どこか認めたくない気持ち、なぜうちの子だけ…という恥ずかしいような悔しいような複雑な気持ちでいっぱいでした。家で大好きな乗り物を使ってご機嫌に遊ぶ息子を思わず抱きしめ、涙が出そうなのをこらえながら力一杯ぎゅっとしました。
三歳児健診で要観察になったことから発達検査を受け、発達に気になるところは見られないという結果になった息子は、幼稚園で新たな指摘を受けました。集団行動ができず、加配の先生を息子につけているということを知り、順調にいっていると思っていた幼稚園生活に驚きと不安を感じます。
幼稚園の担任の先生から指摘され、驚きはしたものの、私としてはそこか「やっぱり…」という気持ちもありました。三歳児健診で要観察になることは、通常だとあまりないことかと思います。そして、他の子とやっぱり少し違ってマイペースなことから、本当に大丈夫なのだろうか?と重いながら毎日を過ごしていたところもありました。
ただ、発達検査で異常ないだったことが、私の心を支えていました。検査をして何もなかった。これが、息子が不思議な行動をとっても、不安になることがあっても、いや大丈夫だ!と前向きな気持ちにさせてくれていたのです。
しかし、幼稚園生活の話を聞けば聞くほど、心が折れて息子にもどのように接したら良いのかわからなくなっていきました。担任の先生から再度話を聞いたときにはっきりと「息子さんは、浮いています。集団に入れていません。」と伝えられました。受け止めたくない、受け止めきれない気持ちに潰されそうになり、息子の前で笑うことがとても苦しかった時期でした。
やきもきしながらも、毎日あっという間に過ぎていきます。幼稚園では様々な行事があり、親が参加することも多くありました。年少さんで初めてのことばかりでした。そこで、息子の様子を自分でしっかり見ることが出来ました。
参観日は親子で一緒に遊ぶことが多く、息子なりに楽しそうにしていました。ただ、皆でリレーをしたり、皆で縄跳びをするなど、息子がやりたくないと思う活動は参加することを渋り、時には泣いて「やりたくない」ということもありました。母と一緒なこともあり、癇癪はありませんでしたが、普段幼稚園では癇癪のように泣くことがあると言われていました。
運動会では、競争意識がまだ無く負けても平然としていましたが、競技にはすべて参加し楽しんでいました。行進や体操なども皆と一緒に頑張っていて、感動したと同時にほっとしたのを覚えています。
発表会の練習が息子にとっては大変な時間だったようで、何度も同じ曲を踊り歌うことにやがて飽きてしまい、途中で参加しなくなる時もあったようです。そういった時は、加配の先生と一緒に過ごすことで気持ちが安定し、当日も泣くことなく楽しそうに発表出来ていました。
年少の秋、発表会が終わる頃に再度発達検査を受けることに決まりました。幼稚園や、幼稚園から息子の様子を聞いていた保健師さんから、児童精神科を受診してみたらどうかと言われたからです。私としては、一年前に発達検査を受けてパスしていたのでどこか大丈夫だと思いたい気持ちと、きっと息子には何かあるだろうというモヤモヤした気持ちがありました。息子の検査を受けたい、受けたくない、とシーソーのようにその時によって気持ちが大きく傾いていて、精神的にもあまり安定していませんでした。
しかしこのままでは、幼稚園で息子が100%楽しんで成長していくのには加配の先生がいなければ難しいと思いました。普段と違う活動で、息子の気持ちを落ち着かせ、楽しく参加できるように関わってくださったのは加配の先生だと行事を見て実感したからです。このままはっきりしなければ、先生方も息子に対してどのように保育していけばいいのか難しいところもあるでしょう。息子が園生活をより楽しむために、思い切って児童精神科を受診しました。
ここ近年、発達障害という言葉がメディアでも多く取り上げられるようになりました。認知度が上がったことで、児童精神科を受診する人も増加傾向にあるようです。私が当時住んでいた街は割と早く予約が取れましたが、検査まで1年近く待つところもあるとのことで、早く受診できることを本当にありがたく思いました。
年少の10月、児童精神科を受診しました。診察室ですぐに息子への問診があり、名前や年齢、幼稚園のクラス名などを聞かれて答えていました。その中で、医師から息子に「家族は?」と質問があり、息子は首をかしげました。そして医師から「この子は自閉スペクトラム症だね。質問に答えられない」と診断されました。
通常ならば、年少なら「家族は?」の質問に家族の名前を言ったり、わからなければ聞き返すことができるとのことでした。抽象的な質問に答えられないのは、自閉スペクトラム症の特徴だと教えてもらいました。この日初めて、息子に発達障害の診断がおりたのです。
自閉スペクトラム症を告げられ、やっぱりそうだった、これからどうなるのだろう、悲しい、不安、どうしたらいいのだろう…とにかく様々な感情が一気に押し寄せました。病院からの帰りの車内では、疲れて眠っている息子を横目に声を上げて泣きました。どうしてうちの子だったのだろう。息子はこれからどうなるのだろう。将来を思うと、親として何が出来るのか、どのように生きていけるのか、どうしても悲観的になってしまいました。
車内で夫に息子の障がい名を電話で伝えると、どこか納得した様子で落ち着いていました。今思えば、いつも通りに話しを聞いてくれたことがありがたいのですが、その時は「どうして同じ気持ちでいてくれないのだろう」と私が勝手につらく考えてしまっていました。
結局息子の障がいを受け入れられるようになるまでは、相当の時間を要しました。未だに気持ちが沈んで考え込み、前を向けないこともよくあります。自分の子どもが健常ではないことを受け入れるには、相当な気力が必要です。
診断がおりてから一週間ほど、私は何をするのも億劫で無気力な時間を過ごしていました。息子の将来を勝手に悲観して落ち込む毎日でした。しかし、そのタイミングで第二子を妊娠していることがわかり、息子が兄になることをとても嬉しく思う自分に気がつくことが出来ました。それからは、つわりに耐えながらも幼稚園と今まで以上に密に連携をとり、療育のことを相談したりと、息子が少しでも過ごしやすくなるよう動くことが出来ました。
療育は小さいときから受けた方が効果があると聞いたことがあったので、受けられないか探しましたが、当時住んでいた所ではどこも定員いっぱいで受けることが出来ませんでした。
息子の障がい名を幼稚園に伝えたことで、幼稚園側も息子への関わりを試行錯誤してくれて、楽しく通うことが出来ました。年中になるタイミングで夫の転勤が決まり、転園・転院になりました。丁度新型コロナウイルスが大流行し、緊急事態宣言が発令され休園となっている中で転園になり、先生やお友だちにお別れを言えないままの引っ越しになりました。きちんとさよならできないままの転園は、息子の様子が心配でした。
新しい街では、転院先の病院で療育に必要な書類を揃えてもらいました。療育先は30ほどある施設から自分で連絡をして見学のアポを取り、息子に合うところを見つけるとのことで、妊娠後期でしたがすぐに動き回りました。息子と一緒に4カ所の見学に行き、息子が気に入ったところに決めて、やっと息子の療育先が決定して通うことが出来たのでした。
療育施設に行き始めたのは、年中の7月です。おそらく、療育を始めるには早くはない年齢かと思います。それでも、息子にとって「楽しい」と思える場所が増えるのは嬉しかったです。療育は、息子が自分で決めた場所なのもあってか、最初からすごく楽しんでいました。送迎もしてもらえることで、妊娠中も産後も療育にはとても助けられました。
療育を受けるということは、我が子の発達に不安があることを認めることが必要になってきます。はじめは、障がいを受け止めることで精一杯でしたが、一緒に我が子の成長を喜んで考えてくれる、すごく頼もしい場所だとわかりました。療育のおかげで、息子も楽しみが増え、より笑顔が増えていると思います。
幼稚園年少で自閉スペクトラム症と診断され、母の妊娠・夫の転勤に伴う転居・転園・療育と盛りだくさんな新生活が年中から始まりました。新型コロナウイルスの影響もあり、休園などいつもと違った日常を過ごしながらも、息子はどんどん大きくなっていきました。
転勤による環境変化と同時に、新型コロナウイルスによって生活の仕方が大きく変わりました。どこに行くにもマスク着用で手の消毒、検温など、変化が苦手な子が多いと言われている自閉っ子は、きっと大変な思いをした子も多いのではと思います。息子はそういった変化にはあまりこだわりがなく、マスクも嫌がらず着けてくれたのでとても助かりました。休園中の平日はなるべく散歩か公園で体を動かすようにしましたが、妊娠後期の私と二人で、近場で遊ぶようにしていました。まだ新型コロナウイルスがどんなものかはっきりしたことがわからず、有名な方が亡くなったりしたことで、恐怖心が大きかった私は、なるべく公園も人がいるときは避けていました。貸し切りになるような小さな近所の公園を探して遊ぶようになり、人との接触がなくなって親子だけの時間で毎日が過ぎていきました。
人との関わりが大幅に減少したことで、コミュニケーションを取ることが苦手な息子は、この貴重な幼児期に経験不足になることがどれだけ影響があるだろうと、親としてはものすごく不安でした。現に親としか接さなくなった息子は、新しい場所への抵抗感が以前より少し強くなっていたような気がします。新型コロナウイルスは、こういったところにも影響があるのだなと恐ろしくなりました。ただ、「コロナ」という単語を覚え、おおよその意味を理解し、マスクや消毒の大切さをわかってくれたことは、とても成長を感じました。年長になった今も「早くコロナいなくなるといいね」と、ニュースを観て話しています。
息子は、年中の7月から療育に通い始めました。月に14回通うことが出来るので、幼稚園降園時間に直接迎えに行ってもらい、療育の後自宅に送ってもらう単独通園を選びました。私たちが住んでいるところは、自分で調べてアポを取り、見学をして療育施設を決めることになっており、決まるまではとても大変でした。コロナウイルスの影響もあって見学が難しい施設もありましたし、いざ見学すると息子本人が雰囲気を好まないこともありました。
4カ所見学し、息子が「ここに生きたい!」と言った1カ所の施設に決まりました。息子は、自閉スペクトラム症の子に多いと言われている特徴のひとつで、不器用さが見られます。特に、運動が苦手で力も弱いので、本人もあまり好みません。療育先は、運動療育に力を入れているところでした。息子も、見学の時に体験してみて「楽しい」と感じたようで、初めての場所は苦手なことが多いにも関わらず、療育は張り切って一人で行きました。幼稚園とはまた違った楽しくて安心できる場所が出来たことは、息子を大きく成長させてくれています。
療育に通わせるか迷っているという方や、どこか負い目のようなものを感じる方もいるかと思います。現に私もいざ息子を療育に…と思うと、覚悟のようなものが必要でした。しかし、いざ通うととても楽しんでいて、人との関わりも増えて、プラスなことしかありません。療育に行き始めてすぐに第二子を出産し、生後一ヶ月ころからまた療育を再開しました。その時も、久しぶりで緊張しながらも楽しみを持って行くことが出来ていました。きっと楽しみながら、信頼できるスタッフの皆さんにたくさん関わっていただき、心が大きく育っているのだと感じます。
苦手としている運動は、まだ難しいことが多いものの、まずやってみようとすることが増えました。今までは「やらない!」と泣くことがあったのですが、チャレンジする気持ちが身に付いてきたようです。
新型コロナウイルスで休園がありながらも、新しい幼稚園に少しずつ慣れていきました。はじめは「行きたくない」と泣いて行き渋り、妊娠後期の大きなお腹で抱きかかえながら18キロの息子を連れていくのは本当に大変なことでした。それでも時間をかけて先生やお友だちに心を開いていき、夏頃には楽しく通えるようになっていきました。
転園先の幼稚園に通って1年半、お友だちと先生のお陰で息子はものすごく伸びました。親バカになるかもしれませんが、息子が心から幼稚園を楽しんでいることが毎日伝わり、とても嬉しく思っています。
お友だちも先生も、息子のことを認め、良いところをたくさん見つけてくれて、すべてを受け入れてくれました。発達障害があるからといって特別なことは何もせず、みんな違ってみんな素敵!という考えで関わってくれています。そのお陰で、自分の得意なことが息子もわかり、とても自信がつき自己肯定感が格段に高まりました。家族以外の人に褒められることは、自信がぐんとつきます。わかっていたつもりでしたが、息子の様子を見てすごく伸びる関わりなのだと気付かされました。
どちらかというと、一人でマイペースに遊ぶことを好んでいた息子ですが、今はお友だちと様々な遊びをしています。誰かといると楽しい!と思わせてくれたのは、幼稚園のお陰だと思っています。幼稚園から帰ると、今日はどんなことがあったか自分から話してくれるようになっており、楽しかったことやもちろん悲しかったことも、自分の経験を伝えるのがとても上手になりました。
比べるのは良くないかと思いますが、年少の時の幼稚園は「息子は人と違う」といった言葉をかけてきたり、息子への関わり方も出来なさそうなことは一人だけさせない、といったものでした。しかし今の幼稚園は、息子のすべてを個性として受け入れ、みんな仲間だからこそみんなで出来ることをしよう!といった方針なので、母としても受け入れてもらえる喜びがあります。
息子が5歳になってすぐに弟が生まれました。初めて私と5日ほど離ればなれになること、その間は父と過ごすこと、母と一緒に赤ちゃんが家に帰ってくること、あらかじめ話はしておきました。いざその時が来ると、何度も私がいつ帰ってくるのかを聞いていたようです。新型コロナウイルスの影響で、出産立ち会いや入院中の面会が出来なかったので、息子はきっとよくわからないまま兄になりました。
いざ弟に対面すると、とても喜んで抱っこをしたいと言ったのでほっとしたのを覚えています。しかし力加減がわからず危ないことも多く、もどかしさからか泣くことも増えました。甘えも増えて、私にくっついてくることも多くなり、些細なことで涙を流すことがすごく増しました。弟へのやきもち、でも可愛がりたい、と気持ちがとても揺らいでいる時期がありました。
私はとにかく兄である息子を立てることに徹しました。弟は、赤ちゃん期はよく泣く子だったので、授乳回数も多く、息子と二人で遊ぶ時間がすごく減りました。そこで、とにかく息子にありがとうを伝えることを意識しました。「息子のお陰で授乳出来ているよ、ありがとう」「弟はお兄ちゃん大好きみたい、ありがとう」「息子と一緒のお風呂楽しいって弟が言っているみたい!ありがとう」と、些細なことでも伝えるようにしていました。それも効果もあってか、気持ちが不安定な時期は2ヶ月弱で無くなり、現在はやんちゃな弟を可愛がってくれています。
自分より小さな家族が増え、守ってあげたい気持ちが芽生えたようです。弟が泣くとあやしてみたり、自分に寄ってきた弟を抱きしめたりと、兄としての心の成長がとても著しいです。時には喧嘩もしていますが、息子にとって弟がとても大切な存在になっているとは、母としてとても嬉しい育ちだと思っています。
まさか我が子に発達障害があると思う人は、ほぼいないと思います。ふと疑問を抱いた時、誰かに指摘された時、心がえぐられる経験もありました。息子に将来はあるのか、自分のせいで息子は発達障害になったのか、不安・焦り・孤独…たくさんの負の感情を味わいました。今も、人それぞれとわかっていても周りと比べて勝手に落ち込むことがあります。それでも、やっぱり息子は可愛くて生まれてきてくれて良かったと思います。息子のお陰で知ることが出来た喜びがたくさんあるからです。きっとこの先も、悩むことはたくさんあるでしょう。児童精神科の医師に「発達障害の子育ては、健常児の10倍は大変だ」と言われたことを今でも覚えています。その言葉を胸に留めておき、些細な成長もできるだけ見逃さずに息子と一緒に過ごしていきたいです。悩んだときには周りに助けを求めて、息子がこれからも自分を好きで、自分を認めて、自信を持って大きくなってくれたらと願っています。