2022年3月15日
子育て
今年2月から4月にかけての我が家での出来事です。
2月初旬に夫に転勤の辞令が出てからはてんやわんやでした。
我が家は夫婦と息子と娘の4人家族で、当時息子が3歳、つまり次の4月から幼稚園入園の年です。
つまり、プレ幼稚園に通ったり、ママ友から情報を仕入れたり、親子で実際に園に足を運んでみたりと、悩んだ末に決めた幼稚園に行けなくなるということです。来週には制服採寸を控えたという時におりた辞令に、私はしばし呆然としました。
しかし、呆然としていても時間は過ぎていくばかりで、誰も解決してはくれません。夫と話し合い、夫婦で新居、夫が引っ越し屋、私が幼稚園を探すことにしました。
新居は実際に見て決めたかったので早速、週末に引っ越し先の県に行くことにしました。その時に、幼稚園も何カ所か見学できたらと思い、リストアップをしました。
現時点で決まっていることは、夫の職場住所のみ…職場からそう遠くない所に家を借りるとして、リストアップした幼稚園は10カ所にもなりました。ありがたいことに、新しい県は幼稚園が充実している場所だったのです。
しかし、その時は2月、すでに募集を締め切っている所がほとんどであり、私はとても焦りました。
『もし、息子がどこも入園できなかったらどうしよう、みんな友達と遊んでいるのに一人ぼっちにさせてしまうし教育も遅れてしまうかも…何よりあと一年、自宅で子ども二人を見るのは私が限界だ…』
と思いました。
まずは、どのような幼稚園に入りたいか今一度整理します。
①バス通園が可能②給食がある③自宅から遠くない④認定こども園⑤大規模過ぎない⑥習い事がある
以上のことを私は重視したので、ホームページで情報を知り得る限りのことを調べ表にまとめました。この時点で候補は10から7に減りました。
そして次に、受け入れ可能であるか、見学はできるか、資料などを送ってくれるかを電話で問い合わせました。結果、現時点で受け入れ不可が1カ所、受け入れは可能だが新型コロナウイルス感染防止のため見学不可が1カ所、郵送資料にてバス通園が不可と分かったのが1カ所ありました。それら外し、候補は4カ所まで絞ることができました。
この時、思ったのは、幼稚園の先生方は転勤族の入園対応に慣れていらっしゃるということです。我が家以外にも問い合わせが来ているという幼稚園がほとんどでした。なので、自分たちだけ取り残されているとは思わなくていいと思います。
また焦ってがむしゃらに電話を掛けると言うことも良くないです。電話代がえらいことになります。自分が何を重視したいのかをしっかり整理してから行動することが大事です。
さらに我が家の場合になりますが、『1号認定』である息子はほとんでの幼稚園で受け入れ可能でした。もっと新居を絞ってからの幼稚園選びでも遅くなかったのかなと今になっては思います。
しかし、当時は何か動いてないと不安な日々でしたので、仕方がなかったとも思います。
その後、新居選びと同時に幼稚園見学も進めたかったのですが、園側の都合で見学は平日午前中のみというところが4カ所中3カ所でした。残る1カ所も行事の都合で見学日を細かく指定されました。つまり、1日に複数個所の幼稚園見学はできないということです。これはどうしようもないことだと思います。私もホームページでは分からなかったことの質問や園の雰囲気をしっかりと感じたかったので、園側の要求に応じました。引っ越し前のA県からB県まで車で2時間という距離が幸いし、私は見学のたびに子どもを連れてB県へ通いつめました。どの園もお忙しい中、丁寧にご対応してくださり、とても感謝しております。結果、私の希望にも息子にもあった園に入園を決めることができました。
その後、ほぼ同時に新居も決まり、先が見えて来たので少し安心しました。入園を決めた幼稚園は見学後は郵送でのやり取りをし、保護者説明会は免除していただきました。正式にB県に引っ越し後、制服や道具を受け取ることになります。この時、私は、まだその後に待ち受ける試練のことなど知る由もなかったのです。
3月下旬、A県に別れを告げ、無事にB県に引っ越してきました。そこで待ち受けていたのは、大量の荷物の荷解きです。引っ越し屋さんに手伝ってもらったものの、全く間取りや収納の違う部屋に荷物を入れることは容易ではありません。さらに子どもがいると全く作業が捗らず、むしろ散らかるだけ散らかされる『一歩進んで十歩下がる』状態でした。
そのような中でも役場へ事務手続きなどやるべきことは山ほどあります。役場では、マイナンバーカードの手続きが一番時間がかかりました。また専業主婦の私が所得がないと証明する『所得税証明書』、児童手当や保育料の計算のために必要ということは知っていました。しかし、引っ越し前にB県の役場(Z部署)に問い合わせたところ、マイナンバーカードがあれば必要ないと言われました。ところが、蓋を開けてみるとB県役場のY部署で必要ということでした。この『所得証明書』は前年の住所のあるところ、つまりA県でしか発行のできない資料です。このことが予め分かっていたら引っ越し前に簡単に発行できたのにな、と思いつつ、結果的に小為替購入手数料と郵送代と手間を払って『所得税証明書』を発行しました。次回の引っ越しの際は、所得税証明書を必ず発行していこうと心に誓いました。
事務手続きの途中で、幼稚園に立ち寄り、約束の入園準備品を受け取りに行きました。制服、体操服、帽子、クレヨンやマジックなど各種お道具など、なかなかの数です。それら全てに記名が必要ということです。記名書き、引っ越しの後片付けに気を取られて、全くのノーマークでした。もっとも準備のしようもできなかったのですが。
幸いにも、プレ幼稚園で使用していたお名前シールの残りやお名前スタンプに、とても助けられました。これらは持っていて本当に良かったです。
担任の先生には、引っ越しで大変だからとご配慮頂き、荷物は後日持っていくかたちでもよいと言われました。しかし、ここでクリアしとかないと終わらないと思った私は全て入園式まで終わらせるように努力しました。荷解き、そして日々の家事育児と両立させつつ、なんとか完了するであろうと思っていました。しかし、私は一番大変な作業を最後に残しておいてしまったのです。
それは『体操服のゼッケン縫い』です。時間はかかるだろう…と思ってはいたものの、針と糸に長らく触っていなかった私は、自分の不器用さを忘れていました。何度洗濯してもほどけないように縫う、『たてまつり縫い』、なかなか難しいです。気付くと斜めに縫っていました。もちろん縫い直しです。体操服1枚縫うのに1時間以上、かかった記憶があります。よく考えると入園式に体操服はいらず、別日でも良かったと思います。しかし、まだ引っ越しの後片付けも完了しておらず、いつ完了するかわからない中で、何か一つでも終わらせてしまいたい!という強い気持ちが私の中にありました。
結果的に、入園準備を全て終わったころには朝になっていました。それが人生で初めての徹夜でした。そのまま着替えて入園式に出席した私の顔はゾンビのように青白く笑顔でも不気味です。入園準備、無理して終わらせなくて良かったんだよと今なら思います。
もう引っ越し転勤と入園入学はかぶりたくない!と思ったエピソードでした。
前章で述べた通り、バタバタでしたが無事に息子は4月から年少さんとして幼稚園に入園することができました。
息子が入園した幼稚園は、いわゆるこども園で幼稚園と保育園の両方の機能が合わさっている園です。息子は、今回年少で入園でしたが半数以上の子どもたちが保育園クラスのころから入園している子たちです。また入園前のプレ教室で、すでにお友達を作っている子たちもいるでしょう。つまり、息子は一人全く知らないコミュニティに飛び込むことになります。見方によって『周りより一歩出遅れている』という考え方にもなってしまうかもしれません。
しかし、我が家は転勤族です。今後もこのように誰も知らない環境に一人で飛び込むことを、避けては通れません。転校は付き物であり、今回はたまたま入園でしたが、人間関係の出遅れが決して不測の事態ということではありませんでした。
そこで私が、息子が出来るだけ人見知りならず、出来るだけ早く新しい環境でも馴染めるようになればと、心掛けていたことをご紹介します。
それは、習い事に通わせるということです。習い事に通わせることで、人との繋がりを作り、またそれが息子の強みになって、自信をつけてくれたらいいなという思いが私にはありました。その自信が、どこへでも行ける精神力になるのでは、とも考えていました。
習い事のスタートとして息子は1歳のころから3歳過ぎまでリトミック教室に通っていました。私と二人きりの生活が当たり前ではなく、同世代の子と友達になることは、とても楽しいということを早くから知っていて欲しかったのです。結論から言うと、息子はリトミック自体はそんなに好きではなかったようです。しょっちゅう脱走しようとし、他のお友達ができていることを息子はやろうともしませんでした。その度に私は『習い事なんて所詮、親のエゴだな』と思っては、このまま継続しても意味がないのではないかと悩んでいました。
しかし、ある日のレッスンで『ドレミのド~♪』と突然言い出したのです。親が勝手に子どもの可能性を見限るのは、良くないなと思った出来事でした。
リトミックに通うことで、音楽的才能や興味があまりないことが分かった息子ですが、当初の目的であった知らない場に行っても人見知りをしない、友達を作り一緒に遊ぶことは楽しいと学んでくれたと思います。
また私自身も息子の初めての習い事では、友達ではなく、ママ友というカテゴリーに初めて踏み入った経験でした。ママ友たちは、脱走する息子を気にかけてくれたり、娘を妊娠中の時や産後にレッスンに同行した時は、みんなでレッスンが上手く進行するように協力してくださいました。それまで私はどちらかと言うと他人のお子さんには無関心な方だったのですが、そうではいけない、皆子育てをしている仲間で困っている時は助け合わなければと学ぶことができました。よく聞くような意地悪なママ友はおらず、中にはおさがりをくださる方もいました。この経験が、私の考えるママ友についての軸になり、自分自身も困っている人を積極的に助けようと思う出来事となりました。
その後、息子は音楽よりも運動に興味があることが分かり、新しく体育教室に通わせるようにしたために、リトミック教室は卒業しました。知らない環境に飛び込むことは、怖くない!楽しい!ということを幼児ながらに理解してくれたと信じています。
そしてまた『ものは奪われても、学んだ知識や経験は誰にも奪うことはできない』をモットーに、今度は息子の興味がある体育教室に通わせることにしました。
以前の習い事のリトミックは、息子の強みとなることは叶いませんでした。
実は、私の夫も転勤族で転校を複数回経験しています。その中で、夫の強みとなったのが、サッカーでした。新しい環境に行ってもサッカーを通じて友達ができる、また例えいじめられたとしても絶対サッカーでは負けない、そしたら誰もいじめてこなくなると夫は言っておりました。
私は息子に、夫のような自分の強みとなるものを習い事を通じて見つけて欲しいと思っています。強みを見つけることで自身もつき、それを通じて友達関係も広がっていけばいいなと考えています。
体育教室では、3歳児ながらも鉄棒や跳び箱、持久走など、なかなかハードなメニューが組み込まれていました。しかし、それだけではなく、サーキットや公園へお散歩などの運動系の遊びからから、工作や絵本読み聞かせなど保育士の方による専門の遊びの時間もありました。この習い事は完全母子分離で、それが息子にはとても合っていたようです。私といるとふざけていた息子が、先生方による指導だと不器用ながらに頑張り、尚且つ、とても楽しんで活動していました。それを発見出来ただけでも私にとっては十分な収穫です。
『この子は、幼稚園でもきっと楽しく過ごせる』
当時私は初めての子の入園を控えながら、いつどこへ引っ越すかわからないという不安を抱えていたので、この子が幼稚園を楽しむことができるという希望が見えただけで、とても嬉しかったのです。
以上、述べたように私は避けては通れない転勤転校に備えて、習い事に力を注いできました。果たしてそれが正解だったのか、そのおかげかは分かりませんが、息子は入園後、一度も登園を渋ったことはありません。出来上がった人間関係の中に飛び込んで、幼稚園生活を送っています。話を聞いたり、様子を見ていると、やはりまだ以前から友達だった子たちとの距離はあるようです。仲間外れとまでは、行きませんが親としては、少し胸が痛いです。でも息子は毎日『幼稚園楽しい』と言ってくれます。それは、現在の幼稚園の先生を含めた、今まで息子をご指導してくださった先生方の教えの賜物だと思います。
このように今現在は息子は新しい環境への挑戦を楽しめています。今後は自分の強みを見つけれるように、親としてできることをしていきたいと思います。
そしてさらに、我が家には現在2歳の娘もおります。私は息子にしてきたことだけのことは娘にもしてあげたいと考えています。私は娘には何を習わせてあげようか、考えました。娘も転校や全く誰も知らない環境に一人で飛び込まないといけない時がいずれくるでしょう。その時に、少しでも苦労しないでいいように、娘にもまた自分の強みを見つけて欲しいと思っています。
娘は0歳の頃から音楽やお歌が好きで、リズムに合わせて身体を揺らしていました。息子と同じようにリトミックに通わせてもいいとも思いましたが、私自身が以前から英語教育に興味がありました。ただ息子は英語は嫌と言って通おうとしなかったので諦めていました。娘はどうだろう…という気持ちで試しにYouTubeで英語の歌を流すと、大ヒットしました。娘なりに英語を歌って踊って、楽しんでいます。これだ!と思い、娘は現在リトミック要素のある英語教室に通っています。そこでは、娘は自分を思いっ切りだして楽しんで英語を学んでいます。娘にとっての強みの一つは英語となるようです。
最後になりますが、私が習い事をさせる上で一番重要なことは、本人のやる気があるかどうかということです。それは私自身が嫌々ピアノやお習字を習って全然上達ができなかったからです。逆に自分で選んだ中学の部活動のテニスは、高校大学社会人となっても続けています。
そうやって身に付けた『学んだ知識や経験は誰にも奪うことができない』ということです。そのように培われた本人の性格や、人との出会いは人生を豊かにしてくれること間違いないと思います。
その経験のために我が家は多少、家計的に無理をしても、子どもたちを習い事に通わせてあげたいと思っています。それが、転勤族で苦労させてしまう子どもたちへの僅かな親としてできることと考えています。
子育てにつきものなのが、ママ友です。ママ友とは育児の悩みや相談、時には愚痴をこぼし合う友達。また子育てに関する情報、子どもの友達作りのきっかけにと、子どものためにママ友を作ろうと一生懸命になる人も多いのではないでしょうか。
私がママ友を作る上で心掛けていたことは『あくまでも子どもたちが主役』ということです。学生の頃の友達とは違い、本当の友達ではない、子どもたちの付き合いが終わったら自ずとママ友との関係も終わる、そのように考えています。
また余計なことは、話さずに心は開かないでおこうとも考えています。なぜそのように考えているのかというと、過度な情報は相手を嫉妬させてしまったり、またはその逆もあり得ると思ったからです。そして何より私たち転勤族は、この地に長く居座らないのです。どんなに仲良くなってもいずれは離れてしまう関係、それならば腹を割って本音で話そう!というよりも、例え上っ面の笑顔の挨拶でも、ストレスやトラブルなく過ごせたらいいと考えています。
ここで大切なことは、無理して一匹オオカミを貫くのではないということです。皆がママ友同士で仲良く話しているのに自分一人だけポツンと独りぼっちは寂しいです。友達とは違う、ママ友。転勤族の私が各地でどのようにしてママ友を作ってきたかを述べていきます。
息子を出産したのは地元のZ県でした。息子が半年を過ぎた頃から児童館やイベントに参加してみるのも、まだ息子は自ら遊び出すことはほとんどなく、家にいるのとあまり変わらないなと感じていました。ここで私を苦しめたのが実母の言葉の呪縛です。『早くママ友作ったがいいよ。私は公園で出会った友達と今でも友達よ。その友達は~』と自分の話をしたいだけの実母のマウンティングが、私を焦らせました。でも今日話しても次いつ会うか分からない人と、友達になれるのか、疑問でした。またすでに知り合いの人たちのコミュニティに話しかけて飛び込んでいく勇気が私にはありませんでした。それでも母は、人気パン屋の行列に並んだ時に出会った親子とも、『ママ友になれば良かったじゃん。私は~』と自分語りを始めます。たまたま行列で出くわした人と連絡先を交換しろとでもいうのでしょうか。不審がられるだけです。私はだんだん母の話よりもネットで調べた情報の方が良いと感じるようになりました。そこでママ友に関するトラブルが多いことを知り、ママ友は本当の友達でなく主役は子どもたちであることという考え方が自分の中でしっくりきました。
そうしているうちに辞令が出ます。息子が1歳の誕生日を迎える前に我が家はA県へ引っ越すことになりました。母のいうママ友はできませんでしたが、Z県の地元の町には小中高の友人がたくさんいたので、その子たちとの別れを惜しんで旅立ちました。
問題はA県です。A県にはほぼ知り合いがいませんでした。そこで私は本格的にママ友を作ることを決意します。母の言葉の呪縛はもうありません。あくまで主役は子どもたち、常識のある人たちと、それなりの付き合いをしていこうと思いました。
そんな時、引っ越しの手続き中に役場で、子育て支援センターについて教えてもらいました。支援センターは主に3歳以下の未就学児が対象の施設で、子育てに関するイベントも定期的にしてるとのことです。今まで通っていた児童館は対象年齢が小学生以上までと幅広く、同世代の子を持つ人と親密になりにくい環境でした。しかし、今回は同じくらいの子を育てるママと出会えるかも…と思い、私は早速支援センターに通うことにしました。
支援センターの職員の方たちは本当に親切でした。子のことはもちろん、私自身のこと、家族のこと、何でも話を聞いてくれました。人によっては職員さんとの、そのような関係が苦手な方もいるかもしれませんが、A県に誰も知り合いがいない私にとっては、とても頼りになるありがたい関係でした。
そして我が家がA県に引っ越してきたばかりという状況を話すと職員さんから『親育て講座』という支援センターのイベントを紹介してもらいます。内容は、未就学児を持つ親10人と職員さんが集まり、子育てについての話や他愛もない雑談をするというもの。それを週に1回、合計7回ほどの2か月間、講座中は子どもたちは別室にて完全託児をしてもらえるというものでした。
『こういう出会いを待っていたんだ!』と私は心の底から思いました。支援センターに通ううちに職員さんとは毎回会うので仲良くなります。しかし、そこで遭遇する親子とは一度話すようになっても次にいつ会えるか、分かりません。もし会えたとしても忘れられている可能性だってあります。
しかし、この講座は週に1回、必ず顔を合わせますし、何より子ども抜きの付き合いができます。あくまで『親育て講座』で子どもが主役のママ友ですが、もしかしたら本当の友達ができるかもしれない、そんな期待さえも持って、私は参加することにしました。
結論から言うと、本当の友達と感じるくらい皆良い方たちばかりでした。ネットで見るような陰湿だったり意地悪な人は誰もいませんでした。またほとんどの方が私よりも先輩ママで、子育てのことはもちろん、その方たちを見ているだけでママ友との関わり方が勉強になりました。最高の『ママ友』です。皆が子どもが主役ということをきちんと理解して付き合っているように感じました。
約2か月の講座が終了してもランチに行ったり、公園で遊んだり、時には主人に子どもを預けて飲み会をしたりもしました。もちろん自由参加で、来れなくてもオッケー。声は必ずみんなにかけるけれども、例え欠席する人がいても誰もその人の悪口なんて言いません。むしろ、誰かが誰かの悪口を言っているのを聞いたことなんてありませんでした。このママ友たちとずっと一緒に子育てできたら何て楽しいだろうな、ずっとA県にいたいな、とさえ感じました。
しかし、3年後、辞令が降ります。B県への赴任です。引っ越し前には、コロナ禍でしたのでランチ会はできませんでしたが、最後に公園で遊びました。あぁ、これで終わりか、よく思い返せばみんなの年齢も知らない、お家に行ったことがある人は10人中1人、また10人のうち1人はグループライン抜けたけど、誰も悪く言わなかったな、みんな踏み込んでいいラインをちゃんと分かっている最高のママ友だったな、と思いました。
その後、B県に引っ越すタイミングに初めてLINE以外のSNSのアカウントを数人と交換しました。遠くに離れているからこそのSNSだと私は思います。またそのうちに一人とは、B県に引っ越し後も会って遊んだりお泊り会をしています。他のママ友とは全く付き合いがなくなったのかと言うと、、、実はそうではありません。
なんと今でも当時のグループラインが時々作動します。病院や保育園の役員についての相談だったり、仕事の相談を皆がし合っているのです。
私以外の方たちも皆、そんなに近い関係ではないと思います。この距離感だからこそ、相談できることがあるのです。決して密な関係ではないけど、その距離感が心地よいのです。リセットだけど、全てがゼロからのスタートではない。私は貴重な経験値と仲間を得てB県に赴きました。
B県に赴任時、息子は年少入園の4月という新しいスタートには絶好のタイミングでした。またA県のようなママ友関係が築けたらいいなと私は思っておりました。しかし、息子が入園した幼稚園はこども園で半数以上が保育園からの親交がある方たちのようです。また2歳の娘のような入園前の未就学児の親子を対象としたサロンも積極的に行われており、なんとそこでもグループがすでに出来上がっていました。予想以上のアウェイ感に私はとても緊張しました。
しかし、それは息子だって一緒です。そんな中でも息子は嫌がらずに毎日幼稚園に通っています。私は幼稚園に行くときはできるだけ、笑顔で挨拶をし、時には自分から話しかけるように心掛けていきました。
そうすることで何人の方とは顔見知りになりました。しかし、A県でのママ友たちのようなママ友関係はとうてい築けそうにありません。コロナの影響で、保護者参加の場が減ったということもありますが、皆が皆もうすでに出来上がっているグループで満足しているようにも思えます。
こんな私でも少し悩みました。傍から見たら自分とは仲良くするメリットがないと思われているのか、もしかしたら知らないところで私が何かやらかしてしまったのか、と思うようにさえなりました。
しかし、ふと考えます。そんな考えで生きていくなんてなんてつまらない人生なんだと思いました。なぜなら私たちは転勤族、いずれB県を去るのです。子どもたちさえ楽しい幼稚園生活を送れていればいいじゃないかと。
無理やりご機嫌取りながらママ友グループに入ったって、その人たちとの付き合いはそこで終わるのだと。
A県のようなママ友関係を築くためには自分が自分であり、子どもに誇れる行動をしないといけないと心に決めました。
そう決めてからも、幼稚園で他の保護者さんと遭遇したら必ず挨拶は自分からするということは心掛けています。その後は、自分の子をしっかりと見つめて過ごしています。
今は息子がクラスのお友達とお手紙交換をしているので、自ずと親が手伝うことになり、親の手紙交換のようになっています。お友達のママさんとはまだ直接話したことはないですが、いつか話せたら良いとも思いますし、このままの関係でもいいとも思います。
私が心配しなくても、息子は自分で友達をちゃんと作れるようになっているからです。
現在、私たちは夫婦ともに30代前半です。周りの友人たちもほとんどが結婚をし、みな次のステップへ進んでいます。その次のステップというのが、マイホームの購入です。
元々、私はマイホームへの執着は少ない方でした。実家が団地→アパート→借家ということもあり、自分の家を建てることができるのは一部の人たちだけだと勝手に思い込んでいました。主人もまた転勤族の家庭だったこと、現在の実家がリフォームしたばかりで居心地が良いことなどから、結婚して、その次は家を買うという発想はありませんでした。
しかし、住宅ローンの低金利化が進み、若いうちにローンを組んで家を建て、早めに完済をし老後の生活の負担を減らすという考え方が一般化してきました。私たちの地元は田舎で土地も購入しやすいということもあり、次々に結婚した友人たちは家を建てていきます。皆が集まれば、マイホームの情報交換の話題で持ち切りでした。どのハウスメーカーがいいか、土地の広さはどのくらいか、太陽光パネルはつけるか、、、そんな時、決まって私は蚊帳の外です。なぜなら我が家は転勤族、いつどこに住むのか分からないからです。楽しそうにマイホームの話をする友人たちを見て、いつしか私もマイホームに憧れを抱くようになってきました。何より、自分だけ皆から置いて行かれているような気がして、とても寂しかったのです。
しかし、我が家は賃貸で会社からかなりの恩恵を受けているのが現状です。敷金礼金はもちろん、毎月の家賃の7割近くを夫の会社に負担してもらっています。退去費用も払ったことがありません。会社都合の引っ越し転居なので!と言えばそれまでですが、この家賃補助のおかげで、ある程度の家には住めています。
もし、家を建てて家賃を払う必要がなくなると当然この補助はなくなります。変わりに月1万円が住宅手当として支給されるらしいのですが、今受けている恩恵とは比べ物にはなりません。
また家を建てたとなると必然的に夫は単身赴任となります。夫不在で、一人で2歳と4歳子ども二人を育てられるのか、とても不安です。育児だけでなく、日常のトラブルや問題を夫なしで乗り越えられる気が自信が全くないです。そのような精神面に加えて単純に、二拠点生活はお金が倍かかります。金銭的にもメンタル面でもマイホーム購入のメリットは現状ほとんどありません。
ただ、それは『現状』というだけで先々にことになると話は別です。
第一に子どもの転校です。転勤族の我が家に転校はつきものと考えて、子どもには世界は広い、いろんな場所でたくさんの友達を作ってほしいと考えています。しかし、それには限度があると思います。我が家の場合では、遅くとも中学生になってからの転校はできれば避けたいというのが夫婦で一致している意見です。小学生と中学生では勉強に注ぐ時間は桁違いです。また部活動もあり一つの社会としての人間関係も自ら築いていかなくてはなりません。それを転校してしまうことで、リセットさせてしまうのは思春期の中学生には酷だと考えます。その頃には、子どもたちも少しは手が掛からなくなって育児の負担は減っていることでしょう。反抗期の心配はありますが、それでも中学校は転校というストレスなく勉強や部活に励んで欲しいと考えています。
つまり、我が家はいずれかは単身赴任の道を選ぶことになっています。その時に、マイホームを購入!できていれば、一番理想的なのですが、まだまだ問題は山積みです。
先に述べたように、夫の単身赴任による二拠点生活はお金がかかります。家賃家具家電は単純に倍、食費だって自炊なら節約できますが、仕事から疲れて帰宅した夫が料理をするとは思えません。外食かテイクアウトとなり、お金がかかってくるでしょう。果たしてそのような中で、毎月ローンを返済していける能力があるのか、不安です。
そこで夫が提案したのは、自分の実家への同居です。夫の実家ということは、私にとっての義実家です。整理していうと、夫不在の中に子どもと一緒に義実家に住まわせてもらうということです。この提案に喜んで賛成してくれるお嫁さんは世の中にどれだけいるのか、疑問です。誤解のないように言っておきますと、義両親はとても良い方たちです。そして夫の実家はリフォーム済みで綺麗で部屋も余っています。でもそれは、今この関係だから言えることです。良い方たちだから同居ができるというと話は別だと思います。例え家賃が浮いたとしても、私は夫のその提案に賛成することができませんでした。
それならば、私の実家に住まわせてもらうかというと、それも現実的な話ではありません。私の実家は、母が祖母の介護をしています。そこに私と子どもたちが住まうとなると、母の負担が増えることになってしまいます。
そうなると、単身赴任から残された私たちも賃貸生活が一番良い生活なのでしょうか。両親または義両親と同居をしてストレスのたまる生活をするよりも、アパートで自分たちだけの生活をする方がいいでしょう。
しかし、また私は考えます。どうせこちらでも賃料を払うのであれば、やはり住宅ローンを組む方がいいのではないかと思い始めました。なぜなら家賃補助には、同じところに住まうのであれば10年までしか出ないという期限があるのです。さらに、当然ながら退職すると家賃補助は出ません。退職後は貴重な年金を家賃に当てないといけなくなります。それよりも働けるうちに働いて、きちんと家を買っておいた方がいいのではないかと、、、。
今まで私の周りでは、注文住宅の持ち家購入が当たり前でしたが、ここで新たにマンションを購入する手もあるのではないかと思いました。私たち夫婦は同じ県の出身で、はっきり言って田舎です。マンションの数は限られています。何も新築にこだわらなくとも、中古マンションでもいいのではないかと考えます。ローン返済後も管理費や駐車場代はかかってきますが、賃貸生活よりも伸び伸び暮らせるのではないかと思います。何よりマンションは持ち家よりも売買がしやすいのが魅力です。今後、将来どちらかの両親に何かあって家をどうかするとなった時も、マンションなら動きやすいでしょう。また逆に老後も住み続けると考えるとしても、階段のある田舎の一軒家より、立地のよいエレベーターつきのマンションの方が安心だとも思います。
私たち夫婦の考えは定まりました。早ければ5年後、長男が10歳の小学3年生のときにお互いの実家のある県に中古マンションを購入するという目標です。小学生でもまだまだ手はかかり、夫の力も借りたいところですが、後のローン返済年月や転校のことを考えると、この5年後というのが一番及第点と考えます。遅くとも小学6年生には実行したいです。そしてそれまでに、現在専業主婦である私が収入源を確保しないといけません。この5年間で頭金くらいの貯金をし、その後もローンを渡し一人で支払っていけるくらいの収入が目標です。
転勤族妻の私に何ができるのでしょうか。ちなみの資格は、運転免許くらいしかありません。今、自分にできて一生できるくらいの好きな仕事、それがライター業です。スキルさえあればパソコン一つで成り立つ、ライター業。転勤族の妻には持って来いです。なぜ、私がこの仕事をやろうと思ったか、それは次章で明らかにしていこうと思います。
近い将来にマンションを購入したいという野望を目論むも、まずは頭金となるお金を貯めなければなりません。我が家は普段から身の丈にあった生活を心がけ、すでにできるだけの節約をしています。もちろん、貯金もしていますが、それは教育資金や老後の生活のためにしてるものであって、住宅資金として貯金しているものは全くありませんでした。普通預金にとりあえず入れているお金もありますが、それを全て住宅資金に充てるだけの余裕はありません。
そこで私は考えました。それは私が働き、そのお給料を貯めて住宅資金にすればいいのではないかと、実にシンプルな答えです。今まで節約することばかりに囚われて、自分が働き稼ぐという発想が全くありませんでした。自分の仕事は家事と育児と思い込んでしまっていたのです。
私は大学卒業後、金融機関に就職しました。しかし結婚して出産後の育休中に、夫の転勤辞令が出て退職しました。正直、前職は正社員ではありましたが、お給料は多くなく、仕事内容も好きではなかったので未練は全くありません。むしろ退職できてラッキーぐらいに思っていました。なので再び働き始めるとしても、金融業にこだわる必要はないと考えていました。
しかし、巡り巡って、偶然にも現在住んでいる県に前職の支社がありました。配偶者の転勤で仕方なく退職してしまった私は、正社員で前職に復帰できるという道が生まれてきたのです。正社員で登用してもらえるということは、職場復帰の最初の壁である保活はクリアできたも同然でしょう。さらに、前職に復帰ということで少なからず知識が活かせます。何より知り合いが仲の良かった同僚たちがいるというのは、とても心強い魅力的な条件です。
しかし、我が家は転勤族です。また数年後にはこの地を去ることになるでしょう。また新しい土地に前職の支社がある可能性は極めて低いです。たかが数年、されど数年、いずれ辞めてしまう仕事に労力を割く必要があるのか、自分自身に問いかけました。何より、この仕事は好きな仕事だったのか、と考えます。どちらかというと辞めたくて仕方ない仕事だったと思い出しました。いくら正社員登用が魅力的でも、それにしがみつくほど我が家は経済的に困窮していません。むしろ、新しいことにどんどん挑戦できる環境にいることに私は気付きました。
再びスタート地点に戻り考え直します。どこへ行ってもできる仕事で、これからずっと続けられるくらい好きな仕事、そして今からキャリアを積めて年齢を重ねても続けられる仕事、何かないか考えます。特に、これと言って魅力的な資格のない私は、まだ若い30代前半のうちに挑戦できる仕事を探しました。そして辿り着いたのがライター業だったのです。そのきっかっけとなったのがテレビ局の番組モニターでした。
私は元々、文章を書くことが好きでした。小中学生のころは夏休みの宿題の定番の読書感想文ではいつも入賞していました。『ペンは剣より強し』という思いもあり、同級生にされて嫌だったことを作文に書いて学校の文集に載ったこともあります。
また大学卒業の進路は、マスコミ関係を志望しており、テレビ局でアルバイトもしていました。大手のテレビ局はどこも不採用だったのですが、最後の最後に辞退者が出てケーブルテレビのアナウンサー兼ディレクターで採用されました。しかし、親の反対にあってすでに内定をもらっていた安定していると思われている金融業に就職することを決めました。
しかし、仕事を始めてからも、なぜあの時、親と絶縁してでもテレビ局を選ばなかったのかという気持ちでいっぱいでした。特に入社1年目はその想いが強かったです。
そんな時代があり、専業主婦となってテレビを見ていると番組モニターの募集のお知らせを目にします。番組モニターとは知ってはいましたが、とても狭き門と聞いています。しかし、挑戦するのはタダだしせっかくだからと気軽な気持ちで応募しました。初めは気軽でしたが、文章を書いているうちに、楽しくなり、また絶対に採用されたいという気持ちが強くなってきたのを覚えています。
夫にも一応報告をしました。すると夫からは「君が文章力があるとは思えないな~」と言われました。今でも、その時の悔しい気持ちは忘れることはないです。そして絶対受かって見返してやる!と思いました。
そして番組から採用の連絡が来ました。就職活動依頼の採用通知です。久しぶりにちゃんと人に認められた気がしました。とても嬉しかったです。夫には謝罪させました。
私は家事育児の合間に指定された番組の感想を執筆しました。人に伝える文章を書くのは難しくも楽しかったです。
そしてまた転勤先で別の地方テレビ局の番組モニターの募集を目にし反射的に応募しました。今度はすぐに採用通知が来ました。受かったのは、たまたまじゃないんだ、私の文章は需要があるのだと少し自信が湧いてきました。
元々、テレビを観ることも好きで執筆も苦にならない、いつしか私はこんな仕事をずっとこれからも続けていけたらいいなと考えるようになってきました。
そう考えているときにまた別の地方テレビ局で番組モニターの募集がありました。この地方は、今住んでいる地域の中では大都市です。番組を観ている人も多く、きっとモニターに応募する人もたくさんいることでしょう。もし、ここに受かったら私は本物だ、文章を書く仕事を本格的にしようと心に決めて応募しました。
結果、すぐに採用通知が来ました。担当者の方からはとても嬉しいお言葉を頂きました。それがまた私の自信になりました。
番組モニターだけではなく文章を書く仕事、つまりライター業であればどこへ行っても続けられるしキャリアも積める、また年齢を重ねてもパソコンさえ使えれば一生できる仕事で転勤族の妻、何より私には持って来いの仕事だと確信しました。
現在は番組モニターの他に、クラウドワークスに登録し、少しずつですが仕事を頂けるようになりました。その頂いたお給料は全て使わずに住宅資金として貯金してあります。前月より1円でも多く稼ぐこと、ただ稼ぐタスクの仕事ではなく将来に繋がる仕事をすること、5年後には頭金分になるくらいまで仕事をこなすことを目標に頑張っております。
しかし、パソコンにまともに触れるのも数年ぶりだったので、初めは何をするにも億劫になっていました。この条件は難しい、これは知らないからできない、これは分からないから挑戦しないと自ら道を狭めていました。でも、これからの時代、ましてやライターでパソコンが使えないとは仕事になりません。まずはやってみよう、分からないことは調べよう、10年後やるのと今やるのでは全然違うという気持ちで仕事に取組みました。結果、初めてのこと知らないことでもきちんと調べれば大抵のことは仕事としてきちんと成り立ちやり遂げることができました。
分からないからできないと諦めなくて良かった、挑戦するなら一番若い今だ!と強く思いました。そして、できないことを言い訳にしてはいけないと実母のことを思い出しました。
私の母は、長年接客業メインのパートで家計を支えてくれました。家事もしながら私と妹を大学まで卒業させてくれて、とても感謝しています。
しかし、接客業のパートとは何年務めても自給はほぼ変わりません。スキルアップにも限界があります。極めつけは事務業に転職したいと思ってもパソコンが使えなければ話にならないのです。
母は、パソコンができないから、パソコンが分からないからと口癖のように言います。また母の友人も同じようにパソコンが難しくて仕事が大変と言っているそうです。母は還暦に近い年齢なので、今からパソコンを一から覚えるのはそれはとても大変なことでしょう。しかし、なぜもっと若い時に挑戦しようと思わなかったのか、さらに言うと勉強して資格を取るなどキャリアの積める仕事をなぜしようと思わなかったのかと、今の母を見ているとそう思います。
挑戦しようと思ったら何だってできる、そう30代のうちに気づけただけで私は良かったと思いました。
時代は進化します。これからはライター業だけでなく、動画編集などまた新しいことにも怯むことなく挑戦していきたいです。
現在B県で生活していると『A県の方が良かったな』と思うこともあれば、逆に『これはB県の方がいいぞ!』と思うこともあります。その土地の特色が出ていてとても面白いです。私が心がけていることは『転勤しない方が良かった、前の県に戻りたい』と口にしないこと。前の県の方が良いなと感じたら、必ず今の県の良いところを見つけるようにしています。そうしているうちにA県B県の両県のたくさんの魅力に気付くことができました。それをご紹介していきたいと思います。
【幼稚園】
・A県
A県の私が住んでいた市に幼稚園は公立が2校、私立が1校しかありませんでした。1つしかない私立幼稚園はあまり評判が良くなく、我が家は公立幼稚園を検討していました。しかし、公立幼稚園のうち1つはバスがなく徒歩か車での送迎が必要。また2校とも給食がなく、毎日お弁当が必須。考えただけで嫌になってしまいました。また図書係バザー係など一人一役何かしら係に就くこと、長期休みには園庭の草むしりに絶対参加など、親の役割が多いように思えました。特に写真係と聞きました。コロナの影響なのか定かではありませんが、例年外部から雇っていたカメラマンを雇えなくなりネット販売ができなくなったそうです。そのため、先生たちが撮影した写真を手売りで販売しないといけないということでした。そういった親の負担の多い話を聞くたびに私は心の中でため息をついていました。
さらに市の決定により運動会もお別れ遠足もコロナの影響で中止となっていました。県内外保育園も含めて、運動会が中止になったと聞いたのはこの公立幼稚園だけです。なんとも融通が利かない印象がとても強かったです。
・B県
今回は県庁所在地の市ということもあって幼稚園は、認定こども園も含めて50件以上ありました。なので、4月入園直前である1月末の問い合わせでも、ほとんどの幼稚園で入園可能という返事を貰えました。その中でも、自宅に近くバス送迎も給食もありという条件で絞って幼稚園を選びました。私立であるからか、カメラマンもきちんと雇われてネットで写真を購入することもできます。育友会役員決めはありましたが、それのみで他の係はありません。コロナ禍でも先生方の工夫により、ほとんどの行事が行われました。
幼稚園においてはB県の方が、良かったと思います。
【医療費や行政サービス】
・A県
これはA県の私の住んでいた市に限るのですが、子どもの医療費が中学生までかかりませんでした。入院も同じです。歯医者も含まれます。我が子は乳児期は頻繫に熱を出しており、また肌荒れもあり皮膚科にも定期的に通院していたので、これはとてもありがたい制度でした。
またコロナ禍では、子育て世代へ市のスーパーなどで使える商品券が一世帯1万円分、カフェで使えるポイントが一人3000円分配布など手厚い行政のサービスを受けることができました。
・B県
B県では、中学生まで1回の通院で500円、入院は1000円です。これでも十分に行政の恩恵を受けているのですが、前の市と比べると負担になっています。子ども2人で月に3回通院して1500円、年間に換算すると18,000円にもなります。改めて金額をみるとなかなかの額だと思いました。
この分野においてはA県の圧勝となりました。
【小児科】
・A県
まず住んでいた市に予防接種を打つことのできる小児科がありませんでした。衝撃的です。幸い隣の市までそう遠くはなかったのですが、先生、看護師さんの対応が高圧的なことが気になっていました。とても相談できる雰囲何かあったときは通院していました。
・B県
これはたまたま知り合いから聞いて行った小児科だったのですが、とても素晴らしい先生と出会えることができました。ご年配の女性の先生で、メンタル面でも相談や通院することができます。一時期、息子の咳が止まらず不安だったのですが、漢方療法などきちんと対応していただき、完治することができました。
また我が家でも子どもたちにコロナ感染の疑いがあった際も、多くの患者さんを診られて大変お疲れの中、とても丁寧に対応していただき、心から感謝しました。
A県でも問題はなかったのですが、患者さんも少なく一番近くの小児科であったので通院していました。今は、少し遠くても信頼のできる先生に出会えて良かったと思います。よって、小児科はB県の方が良いです。
【習い事】
・A県
息子が1歳のころからはリトミック、3歳になってからは体操教室に通い始めました。どちらの教室の先生も、子ども一人一人を見てくださっているのが伝わり、それだけで習い事をさせて良かったなと思える出会いでした。
特に体操教室は子ども3~4人に対して、補助の先生も合わせると3人ついてくださり、とても手厚かったです。心の成長のために通わせていた体操教室ですが、跳び箱や鉄棒など技術面でも上達を感じました。
・B県
B県の体操教室は幼稚園の後に、そのまま体育館で行われているタイプのものに決めました。引っ越してきたばかりで手続きにおわれ、じっくり習い事まで検討する余裕がなかったこと、また幼稚園のお友達とも仲良くなるきっかけになればと思っていました。この教室では子ども約20人に対して先生は1人、初めて見学に行った時は動物園状態でした。先生も子どもたちが言うことを聞かず、苛立ってしまっていることが伝わりました。そして『去年のクラスとは大違いだ!去年は優秀だった』と何度も言われていました。私は『前の体操教室とは大違い!前の教室の方が良かった!』と言いたいのをグッと堪えました。跳び箱にしても、跳べる子はいいですが、跳べない子はただのぼるだけの流れ作業のように感じます。補助の先生をつければいいのにと思いました。ちなみに月謝はA県の体操教室とほぼ変わらない金額です。
それでも息子が幼稚園のお友達と楽しく過ごしているようなので、通わせて良かったと思うようにしています。
体操教室に関しては、あのままA県で通わせることができていたらなとよく思ってしまいます。しかし、B県でも新たに、息子はサッカー教室、娘は英語教室と良い先生に出会い、良い経験をさせてもらっています。今後も出来る限り、今の環境を楽しむ努力をしていきたいです。
【カフェ・スイーツ】
・A県
誕生日、クリスマス、ケーキを楽しむ行事ごとのたびにどこのお店にしようか毎回迷ってしまうほど、ケーキ屋さんが充実していました。どこのお店も本当に美味しく、ただ甘いケーキが美味しいというわけではないということが良くわかりました。
カフェもたくさんあり、仕事で外回りの営業をしている夫も昼休みにカフェ巡りをするのが楽しみとなっていたようです。
・B県
正直、県全体のレベルの違いを感じました。B県で行列に並んで買った幻のシュークリームよりも、A県で予約さえすればいつでも買えるシュークリームの方が、サイズも大きく値段も安くて美味しかったです。
カフェはこれから増える傾向にはありそうですが、クリスマスも誕生日ケーキも某アイスクリーム屋さんのアイスケーキとなりました。市外の方が美味しそうなケーキ屋さんがありそうです。
この分野では圧倒的にA県です。今度、A県に行った時には久しぶりにスイーツを買いに行きたいと思っています。
【車のマナー】
・A県
譲り合いが基本で私も何度も助けてもらいました。私も道路が渋滞していても、入れないで困っている車がいたら入れてあげるようにしています。
・B県
違法駐車、路上駐車は当たり前、譲らない入れないのも当然といった環境でした。横断歩道の歩行者も、無視です。それが当たり前と思わないように、私はA県での運転を心がけています。
B県でも『運転が上手な人ほど、譲ってあげる』ということを念頭に、運転をしています。
B県で暮らしていても、A県の方が良かったなと思ってしまうことはあります。それは仕方ありません。でも思っても口にはしないようにしています。どうしようもないことですし、聞いている人も良い気はしないでしょう。
同じように心がけていることとして、絶対にA県の人にA県の悪口、B県の人にB県の悪口を言わないことです。そして子どもの前でも、その県の悪口を言わないことも大事です。子どもが学校でそんなこと言ってしまったら、お友達に嫌な思いをさせてしまうでしょう。
このタイミングでの引っ越しは運命、一番良いタイミング、日本中の美味しいものを食べれて日本中に友達を作れる私たち
勤族は幸せだよ、と言い聞かせてこれからも子育てをしていくつもりです。