2021年12月6日
子育て
初めての我が子。とってもかわいい我が子は自分の分身のように思っていました。
私が今までの人生で後悔した事を我が子でやり直そうと思っていた気がします。
本人の意思に関係なく良かれと思って行ってきた事が、全部裏目に出てしまい、自己肯定感の低い子になっていました。
不登校の原因も人それぞれですが、我が子の場合は私が原因だったと思っています。
そう、不登校の頃は、もう対人恐怖症になっていたんです。
長女が年中、長男が1才児クラスの時に私も別の保育園の保育士として働き始めました。
なかなか慣れない保育園。長女は秋まではずっと泣いて登園しました。
もちろん可愛そうという気持ちもありましたが、それよりもいつまでも泣く我が子に「早く慣れてよ。どうして慣れないの!?」「もう、いい加減にして。」と苛立つ気持ちの方が強かったです。
そして、きちんと子育てができていないと保育園の先生から思われているようで、私はこの状況をなんとかしたいと日々考えていました。
まだ長男は夜泣きをすることがあり、私自身も慣れない職場で家事との両立も大変でした。姑ともうまくいっている方ではなかったので、ほんとに精神的にもまいっていました。
保育士の仕事は重労働。1才児クラスの担任は、常に抱っこやおんぶ、おむつ替えと全介助が必要な子どもたち。外遊びでは怪我のないように神経を使っての見守り。独身の時は気にもせずにできていたのですががとてもきつい仕事だと感じました。
子供の迎えに行き、家につくと座る暇もなく、大人6人分と子供2人分の晩ごはん作り。畑から野菜を取ってきて、庭で洗って台所へ持っていく。今の私だったら新鮮な野菜で幸せよねと思えるのですが、当時の私は「これがあるから、早く作れないのよね。はぁ、スーパーの野菜でパパット作りたい!!」
本当に毎日が急いでいました。
晩御飯の時間も子供を寝かしつけたい9時、せめて9時半、そう思って逆算すると7時には遅くとも食べ始めたかったのです。
その頃は料理も得意ではなかったので、大家族の食事作りは必死で行っていました。
長女が保育園に慣れない時は4歳の娘を背中におんぶして、すごい形相で晩御飯を作っていたと思います。
母親といる時間を少しでも、長くしたら良いと思って気持ちは子供にはなく、役目済ましでした。。
独身の時の私は、今では考えられないような低レベルの保育園に勤務していました。
だから子供についての学びなんて私にはありませんでした。
新しく働き始めた保育園の先生が私の娘について「母子分離ができていないのよ。」と言ってくださっても意味がわかりません。今のようにスマホで検索という時代でもなかったので、調べることもせず、理解もできていませんでした。
せっかくのアドバイスなのに。
22年前の話ですが、保育の時の会話で「発達障害」の言葉が出ても、身長や体重が平均よりも低い事と思っていました。まだ、今の様に発達障害という言葉がポピュラーではない時代。だから、この先生は何を言っているんだろうかと頭の中は「???」でした。
理解できないくせに、調べることすらしていませんでした。帰宅して保育の仕事の振り返りなんてとてもできませんでした。
あの頃の私に今の私が言ってあげたい事は、「あなたがそんなにイライラしているから、長女も不安なんだよ。もっと、おおらかでいなさい!!そりゃぁ、9時9時半に寝せつけるのも理想だけど、あんたみたいにガミガミ言って寝かしつけられるんじゃ、子供も安心して、眠ることだってできないよ。だから夜泣きもするんでしょ!」と。
保育園の運動会は泣いての参加かなと思っていたのですが、なんと練習のかけっこで1位になったことがきっかけでそれからは保育園に泣かずにいくようになったんです。
1位になった事が自信につながったんですね。
もちろん、たくさん褒めました。
しかし、笑顔で接していたのも束の間。また、慌ただしい毎日の日々。
朝の準備の時間が特にバタバタです。
その頃はお弁当を4つ作っていたと思います。(私は給食ですが。)
洗濯物は義母に大人の分は任せ、夜に子供の分を洗って干していました。
それは、よくやっていたなぁと思います。自分で自分を褒めてあげたい。
だから、朝の時間がホントあっという間でした。お弁当作りに朝の食器の片付け、一応の自分の身だしなみも。
よく娘に「車に乗っていてね!!」と大声で言っていました。
テレビを見ながら、待っている娘に「時計の針が6になったら車に乗っていてね。」
と声をかけ、長男を見ながら2階に行って自分の準備をします。
そして、下に降りて長女が車に乗っていなかったら「はぁ、なんで車に乗っていないの!お母さん仕事間に合わないでしょ!年長なんだから、それくらいできるでしょ!!」
「腹立つ!」
ほんと、毒親ですよね。今の私はあの頃の私に説教したいです!!
「もう少し頭使ってうまくいくようにしなさいよ。子供がテレビを見て動かないのは当たり前でしょ。保育園で子供なりに精一杯頑張っているの!家では自分のいいようにしたり、甘えたりしたいのよ。なんであなたは保育士なのにそんなこともわからないの。」
そう、言ってあげたいです。
その当時は私の関わりを肯定するように、たまたま独身の時に勤務していた1つ下の後輩保育士と同じ職場になりました。
その後輩も私とおなじ様に子供を保育園に送って勤務していました。
私達の朝の会話は「もう、全然朝の準備、自分でしないのよ!めっちゃ怒った!」
「うん、わかる、わかる!!」「自分の事くらい、してほしいよね。」「こっちも忙しいんだから。」
ほんと、低レベルな私達でした。
その関わり方が思春期に大きな影響が出るということもわかっていない。
まだ、それくらいのことは全然大したことに値しないと言うことも理解していなかったんです。
10歳年上の先生にそのことを何気なく話すと「そんなに、朝から怒ったらダメよ。別にできなくていいじゃない。大きくなったら出来るようになるよ。朝から怒るのだけはやめなさいよ。1日中落ち込んで保育園でも過ごすことになるよ。」
きちんと的確にアドバイスしてくださる先生もいたんです。
でも、そのころも私は聞く耳を持っていませんでした。
「そうは、言っても仕事に間に合わないもん。」
自分中心でした。
朝からきちんと車に乗って欲しいんだったら、大人の私達がアイデアを出すんです。
「お母さんと競争しようか?時計の長い針が6になったら、車に乗っておく。どっちが早いかな?」
「きちんと座るまでが勝負よ!」
なんて言ったら、張り切ってやってくれるはずです。
「買った人は特別にご褒美、アイスね!」
そしたら、長い針が6になる前から車に乗って座って待っているはずです。
それこそ、年長なんだからやってくれるはずです。
しかも、ニコニコして、楽しそうに!
「お母さんより早いよっ!」て笑顔いっぱいに行ってくれるでしょう。
きっとこんなことでも自己肯定感は生まれるはずです。
その頃の私、よく「保育士って言えたよね。」と先輩保育士の私から言いたいです。
私は小さい頃にピアノを習い始めたのですが、練習が嫌でした。
というのも、今思えば練習の方法がわからなかったり、一人になるのが嫌だったんです。
母親に練習を付き合って欲しかったし、ただ一緒にいてほしかったんです。
私の幼少の時から共働きの母は時間もなく、私のピアノの練習なんて見る暇はありませんでした。
「自分で練習しなさい!」「練習全然しないよね。」とよく言われていました。
だから、ピアノの先生から怒られても練習もしない日々。
そしたらピアノにも行きたくない。
練習に行かず、時間をつぶして家に帰っていました。
だから、ピアノは初心者レベルです。
6年間も行ったのに身につきませんでした。
長女は保育園の頃はピアノも喜んで習っていました。
私も優しく、その頃までは練習に付き合っていました。
発表会のドレスを買ってあげるととっても喜んでいます。
あの頃の私は長女を、ピアノもできて自分で身の回りの事も率先して行うとってもいい子にしたかったんです。
しかし、この習い事が私をますます毒親にしていきました。
小学校は近所の子供と集団登校でした。片道50分。重いランドセルを背負い、きゃしゃな我が子の登校は大変心配でした。それでも近所の同級生と歩いて行ってくれました。
そんな中、小学生になったらやってほしい習い事の一つ、「習字」に入塾させました。
この地域では習字の習い事が盛んで、週3回、夏休み、冬休み、春休みは土日除いて毎日行っていました。
学校帰りに習字に寄ってきて、帰りは迎えにいくというパターンでした。
私の迎えまでは宿題をして、待っていてくれています。
「早く宿題してよ!」って言わなくなるんです。
ほんと助かりました。
それに、それだけ力を入れてくださるので、ドンドン級は上がり、賞状も何枚も貰って来ていました。
それも、私にとっては誇らしかったです。
私が貰った賞状は小学校時4年生の書き方の硬筆に1度だけ入選だったんです。
ほんと、それだけでした。
だから、私の分身が沢山の賞状を貰ってきてくれるのは自分のやり直しができている感じでしたね。
習字は家ですることはほとんどありませんでした。夏休みなどの長期休みの習字の課題は習字教室でやってきていました。
だから、私が関係することは送り迎えだけだったですね。
ピアノも週1回行っていました。
ピアノ教室には義父が送ったり、ピアノの先生が小学校まで迎えに来てくれていました。
ピアノの練習は私がなるべく見てあげるようにしました。
でも、次女が生まれてからは手が回らず、週に2回ほど、見るのが精一杯でした。
そんなある日、娘が100マス計算という算数の宿題が時間に間に合わないと、ギャーギャー泣いていたんです。
何度やっても、できない。
もう、パニックになっている。
それを見た私は最初はなだめては見るものの、泣き止まない状態を見て、
長女よりも大声で叱りつけていました。
娘は大泣きが止まりません。その娘の声よりも大声で「泣いても一緒でしょ!」と叱りつけました。
そのようにしても、長女の涙は止まりませんよね。
今の私ならわかるのですが、あの頃の私は子育ての方法が全然わかっていなかったんです。
長女のようにできないのをできないままにするよりも
「100マス計算が思うようにできない!!」と悔しがるのはいいことです。
それは、まだ小学2年生だったから、泣くという表現になっただけです。
学校ではそのような表現はしないはずです。
家でだったから、自分の心を開放し、大泣きという表現、悔しさを体中を使って表しただけだったんです。
そんな事は、ピアノの練習でもありました。
発表会前なのに、練習しない娘。
その時はできなくて、その時だけやりたくなかったんだと思います。
それなのに、私はすぐに叱りつけていました。
しかも、泣いて逃げる我が子を追いかけ回しました。
そして、叩きました。
つかみ合いになりました。
つかみ合っている時、「私この子が思春期になったら同じ様に叩かれるかも。」
と頭にそんな思いが寄ぎりました。
でも、その考えは一瞬で消えました。
ピアノの前に座らせようとしましたが、長女は座り込んで絶対に動きませんでした。
私は、自分の人生のやり直しをさせる為に必死だったんです。
娘の人生なのに、私ができなくて後悔したことを娘に出来るようになってもらいたい。
これが出来ると人生自信をもって歩んでいけるから。
だから、私が示すとおりにこのレールの上を歩んで行ってほしかったんです。
大好きな我が子にそういう事を望んだらいけないとは思いません。
そう、だれも、母親になったら我が子の将来について苦労なく過ごしてほしいと思いますよね。
でも、いい子にしたいから、「あなたの為思ってやっているのよ。」と押しつけになったらそれは、いい人生には絶対に行きません。
今の私は経験したからこそ、そう思えるんです。
習い事にしても、勉強にしても叱ったりせずに一緒に楽しむことが大事なんですね。
そして、褒めるというより認めてあげることです。
「出来るようになったんだね。」とできた事を認めてあげるんです。
「すごいね。」「上手だね。」をあまりにもいい過ぎると子供は上手でなければいけないと思ってしまうので、今の状態を「できたんだね。」と認めてあげることがいいんです。
似ていますが、微妙に違うんですね。
私みたいに叱りつけて、つかみ合いになってしまった時の子供の気持ちはどうでしょうか?
「お母さん、なんで私に叩いたりするの?なんでいつも、怒るの?」
「私のことが嫌いなの?」
「私のことが嫌いだから、あんなに怒ったり叩いたりするんだよね?」
「私なんかいなくなっちゃえばいいんだ。」
子供は悲しくて、心も傷ついているんです。
まさか「お母さん、私が将来、大変な思いをしないように今怒ってくれているんだ。」
「私のために本当はお母さん私を叩きたくないけれど、我慢して叩いてくれているんだ。」なんて絶対思いません。
ほんと、ここは勘違いしてはいけないところです。
なぜ、このような事もその頃の私は、わからなかったんだろうと思います。
一緒にケーキを作る時も「もっと、綺麗に盛り付けて!」と叱っていました。
全然楽しくないですよね。
子供だから、ぐちゃぐちゃ好きなようにさせて「楽しかった~!」の満足感だけでいいじゃないい。そんなに質を高めたかったら自分で作ったら。
最低の母親でした。
あの頃に戻って子育てやり直したい。
習字は5段まで昇進し、毎回賞状やトロフィー、盾をもらっていました。
私も誇らしかったですね。
でも、長女は「習字、辞めたい。」と言い出します。
「えっ、なんで!?せっかくだから続けなさいよ。」
「…。」
そう、私のことだからゆっくり話も聞いてあげずに納得なんかしません。
でも、私も長女について気になることが出てきていました。
それは、おねしょが治らないんです。
保育士だった私は、おむつは1歳6ヶ月で外しました。
それから、1歳半の検診に行って尿パットにおしっこができなくて、紙コップで採尿するということも自慢のたねでした。
お出かけして念の為に紙おむつを履かせても、2歳前の子が紙おむつにはしないと言ってトイレを探しておしっこをするということも誇らしげに思っていたんです。
それなのに、おねしょは治らない。
なんでだろう。
そう思って、かかりつけの小児科に聞いたりもしました。
それと言って答えももらえない。
もしかして、習い事が負担なのかなと思ったりもしていました。
惜しい気持ちはありましたが、習字を辞めさせました。
後で娘は「習字の片付けが嫌だったから。」と言いましたが、きっとあの頃の私に理由を言ったって、認めてくれない、怒られるだけだから、本当の理由は言わないでおこうと思っていたのでしょう。
それから、娘のおねしょはピタリと止まりました。
長女にとって賞状をもらう度に今度もいい成績を取らなければいけないと負担になっていたんだと思います。
かなり、追い詰められていたんでしょう。
それが、おねしょとなって現れていたと思うのです。
でも、この小学校4年生までの間の関わり方を私は大きく失敗しています。
間違っています。
あの頃の私はわかっていなかったんです。
それを、時に義理母に「近所に聞こえるよ。」となだめられるときもありました。逆上していた私は聞く耳を持っていなかったんです。
主人も私をあまり止めることはしなかったですね。
レストランで叱っていたら「もう、叱ったら、美味しくないよ。」というくらいでした。
私、元来の性格がそうさせたのかもしれないし、小さい頃の父親からは叱り付けられていたというのもあるかもしれません。
でも、主人や義父母、主人の妹、弟との同居が私にとっては苦しくその解消の矛先が長女になってしまっていたんだと思います。
でも、このような叱りつけた子育ては思春期になって不登校になったり、家庭内暴力になったり引きこもりになったりするんですね。
結局、大変さは倍になって家族に返ってきます。
年齢に「つ」がつくまでは手をかけて育てましょう。と次女の保育園の子育て講演会で長女が不登校時代に聞いたのですが、まさにそのとおりと思いました。
そんな風にしなかったから、今不登校なんですと。
あの頃の私に言いたいです。
自分のうっぷんを晴らすのに、絶対、我が子に八つ当たりしてはいけません。
カウンセラーなど公の相談を利用するといいよ。
もし、仕事で時間がないのなら、「ココナラ」みたいなところでも子育ての民間の専門家に相談が出来るよ。
自分一人で抱え込まないで、相談したら道が開けるよ。
叱りつける、母親の想いを押し付けると子供は「私はお母さんから嫌われているんだ、いなくなっちゃえばいいんだ。」と自己肯定感が低い子に育ってしまいます。
その様になったら、大人になってからも、この殻を突き破る事はできずに大変な人生を送ることになるんです。
頭が良くなくてもいい、運動ができなくてもいい、お手伝いができなくてもいい。
「だいすきだよ。あなたがここにいるだけでお母さん幸せよ。」
これだけを言って、ニコニコ子供の前では笑顔でいると子供の人生は輝かしいものになります。
子育てはこれだけでいい。
後は子供が勝手に育ちます。絶対に!!
「学校にいきたくない。」と言い始めた時くらいから、お腹が痛いというのでかかりつけの内科に相談のような感じで受診しました。
先生が言うには、「起立性調節障害になっているかもね。大きい病院で診てもらった方がいいかもね。」と軽く言われ紹介状を書いてもらいました。
幸いにもすぐ近くにその病院はあり、すぐに受診しました。
小児科にかかり検査を行ってもらいました。
ベッドにしばらく横になって起き、それから立った後、ふらつきを見て血圧や脈を測ってもらっていました。
実は小学校の低学年からその徴候は出ていたようでした。
娘が通っている小学校は、毎年クラス替えがあるんです。
1年生のときの先生は女の先生で娘が大好きな先生でした。
その先生が転勤することになり、またクラスも変わることが娘には辛いことでした。
転勤の発表があってから突然過呼吸になり、救急病院へ言ったことがありました。
その時はすぐによくなり、帰って来るのです。
特に治療はないという感じでした。
次の年は私が仕事だったので春休みだからと義父母が長女と長男を近くのテーマパークに連れて行ってくれることになっていました。
スーパーで買い物をしている時に、過呼吸になってしまいました。
慌てて義父母が救急病院へ連れて行ってくれました。
4年間、毎年春休みになっていました。
クラス替えがもの凄く娘にとっては怖い、不安なことだったのでしょう。
その時に病院で起立性調節障害のテストも行われ、「早いけど、起立性調節障害みたいだね。様子を見ましょう。もう、これくらいでなったかなぁ~。」
とぼそっと先生が言われていました。
5年生くらいから過呼吸の症状は出なくなっていたのでもう、治ったのかとも思っていました。
それに今思い返すと小学校に行くようになって歩く距離が長いから朝が起きられないと思っていました。
でも、早めには寝るように言ってましたので21:30までには寝ていたんです。
それなのに、朝になり何度起こしても2階から下に降りてこない。
甘えているのかも知れないから、主人におんぶして降りてきてもらっていました。
それも、起立性調節障害の全長だったかもしれません。
過ぎ去ってからわかることも多いです。
言葉でもうまく言い表せない子供には辛いことだったと思います。
起立性調節障害ってなった人にしかわからない辛さがあると思うんです。
私は頭痛持ちでもなかったので、全くわかりませんでした。
朝、頭が痛かったりお腹が痛かったりすることが実感できません。
一番この起立性調節障害に対して理解しがたいことが、昼夜逆転することだったんです。
そして起立性調節障害という病気を親さえも認めるのは難しいということでした。
今はこの起立性調節障害という病気も認知されています。
でも、娘が発症した10年前くらいは情報番組で特集されるくらいでした。
朝起きれずにそのために学校に行けていない子の様子を番組が密着していました。
うちの娘もそんなふうになってしまうんだろうか…。
と漠然と番組を見ていました。
病院の先生から責めてはいけません。
同居の家族にも「病院の先生から言われたので、長女をありのまま受け入れて下さい。好きな時間に起きても良いです、といいなさい。」との言葉がありました。
朝は起きれないことも受け入れるように言われました。
朝は起きれず夜中に活動する娘。
活動と言っても、何か食べたり雑誌を見たりCDを聞いたりしていました。
朝起きれず起こさないと、私が夕方帰宅する直前に起きていることも多かったのです。
私が帰ってくる直前というのは、娘にしてみれば怒られる前に起きておこうと思ったのでしょう。
理解してあげなきゃと思いながらもこの現実の日々にもがき苦しむ日々でした。
規則正しい生活を送って毎日笑顔で「いってきま~す。」と言ってほしい。
なんで自分だけがこんな目に合わなきゃいけないの!
単純に夜遅く寝るから朝、起きれないんじゃないの!とも思いました。
病院では低血圧の薬を処方してもらっていてそれはきちんと飲んでいました。
薬は効かないんだな。
娘が一向に良くなっているとは思えませんでした。
そんな毎日に「起立性調節障害ってただ怠けているんじゃないの?」とイライラが爆発しそうでした。
やはり理解するのは難しかったんですね。
でも、ある出来事で理解してあげなくてはと思いました。
あるアイドルのコンサートチケットが当選しました。
その当時はなかなか手にすることのできないチケット!
これで娘も元気が出ると喜んでいたんです。
前日にいろいろ準備していました。
田舎なので駅まで車で行くようになっていました。
その電車に乗り遅れるとグッズも買いたい娘は1日のスケジュールが大幅に狂います。
どうしても始発で行きたがっていたのは娘なんです。
さすがにこの時は起きるだろうと思っていたのですが、昼夜逆転しているので夜が眠れない。
朝も低血圧のような感じなので起きることが辛い。
やっとの思いで起きたんだと思います。
でも、ギリギリでしたから車を飛ばして駅へ向かいました。
かろうじて電車に間に合うことができました。
誰しも前の日からワクワクして眠れなかったということはよく聞きます。
そういう物だと思ってもいます。
でも、娘はワクワクはありながらも、眠ってしまったら「起きることが眠いから嫌だ、まだ寝ていたいよ。」のレベルではなく、起きれないほどの頭痛や倦怠感があるんだということにきづきました。
吐き気もしていたと後になって言っています。
病気は本人でないとわからないとよく言いますが、起立性調節障害という病気はなってみていないと理解しにくい病気の典型ですね。
主人はちっとも、長女のことに口出しすることはありませんでした。
「なんで私だけ仕事休んで一緒に受診したり、学校にも行かなきゃならないの!あなただって親でしょ!一緒に行ったり、交代で受信してくれない?」
そう、言いたかったのですが言えませんでした。
ほんと、自分ひとりで対応していました。
この気持ち誰かわかって!
そう、思う日々で辛かったです。
ただ、救われたのは義父母の対応が神だったことです
娘が16時に起きようが17時に起きようが何も言わなかったのです。
義父母が理解を示してくれたことは大きかったですね。
義父母の世代ならそんな起立性調節障害の症状はただの怠けです。
それを一言も文句言わずに理解を示してくれたことで、娘も安心して家にいることができ自分の居場所も見つけることができたのです。
だから自分の部屋に引きこもることはなかったですね。
自分だけにならないように声をかけ、怒らないようにしました。
このことが大事だと言われました。
家で居場所があり、本人を認めてあげると引きこもらないと。
今思えば主人が色々口出ししなかったことが、娘に威圧感を与えず過ごせたんだと思います。
普段は起立性調節障害なんて思えないくらいに普通の会話はしていましたから、それが良かったんだと思います。
将来うまくいくようにとこの子の為に思ってやっていることが全部ダメなことでしたが、少しずつ、気付きがあったり自分一人では子育てはできないものだと考えることができるようになっていました。
様々な方の娘への関わりが私にとっては嫌なこともあったのです。
保育士だから、そのような子育てはしたくない。
何の勉強もしていない実践だけの保育士なのにそういうことを思ってしまっていました。
この長女の姿が私を少しずつ変えてくれていました。
やっと義父母にも感謝の気持が言えるようになっていました。
長女は小学校6年生の時にイジメを受けるようになりました。
「学校に行きたくない。」「いつも、昼休みは一人。」と言っていました。
「近所の〇〇ちゃんと一緒にいてもらったら?」
「〇〇ちゃんは別の友だちと遊びに行くもん。だから私は一人。」
(お願いだからうちの娘と誰か一緒にいて)と思っていました。
なぜ、うちの娘をいじめるの!?
何をしていてもそう思っていました。
クラブ活動である意見を言ってからイジメに合うようになりました。
それがきっかけで女子から無視が始まりました。
シューズに画びょうを入れられたり、水たまりにシューズを捨てられたりとイジメはエスカレートしていきました。
担任の先生に言うことでますますイジメがエスカレートしたら言わないほうがいいのかもと思ったりもしました。あまり信頼できなかったので悩みましたが、伝えました。
後日、娘に渡す新しいシューズを持って主にイジメをしていた2人の母親と父親が我が家に謝りに来ました。
座敷に通し謝られたんですが、私が行った言葉「子供さんを責めないでくださいね。」
なぜ、私がこのようなことを言ったと思いますか?
それは、イジメ側の1人の子供の両親が離婚したばかりだったからなんです。
「その子も大変だから」とうちの子に我慢するように言ってしまったんです。
何をどの顔で言ってしまったんでしょうか。
あんたって馬鹿ばかじゃない!!
その頃の私に言いたいです。
知識もないくせに子供について勉強もしていないくせに、先生ズラでした。
我が子のことはさておき、離婚してその子が傷ついているはずと思うズレています。
きっと我が子はこの母親に絶望したでしょう。
母親だったら、もっとイジメた子にも、親にもはっきり「私の宝物を傷つけないで!どんな思いでこの子を産んだのかわかっているの!!」
と大声で言ってよかったんです。
娘をいつも叱り飛ばす口調でこの人達に言ってよかったんです!!
後悔しました。
娘はストレスで顔にニキビがたくさんできていました。
それからは男子にも「顔洗ってこい!」と言われるようになったと言います。
学校に行きたくないというのも当たり前なのです。
でも、違うクラスの子と休み時間は過ごして、だれもいなかったら本読んで頑張って過ごしてと言ってしまう私でした。
学校に行かないという選択を認め着れなかったんです。
休む日も多くなりました。
でも、この人達とは別の中学校に行く。
受験する!!
ということが、心の支えでなんとか学校に行っていました。
合格したら別の中学に行けるのです。
そうしたら、友達もできて楽しく学校に言ってくれるはずなんです。
塾に通っておらず、通信教材での受験勉強でした。
そんな娘に「その人達と一緒の学校に行きたくなかったら勉強しなさい。」
と鬼のような顔つきで私は言葉を浴びせていました。
本当に今思えば私が「悪」だったんです。
まさしく毒親です。
それを気づかない私。
せっかく生まれた女の子におさがりばかり着せていました。
それも、随分くたびれたものを。
「オーバーホールが欲しい。みんな着ているから。」と言っているのに買ってあげませんでした。
お金が無かったことも大きかったです。
私が長女の言うことを全て否定してきたので自己肯定感もなく暗い女の子になってしまいました。
流行りのドラマも見たがっていたのに、朝起きれないからと言って絶対に見せませんでした。
テレビの話題にもついていけなかったと思います。
自分が小学校の頃父親にされたことを同じ様にしていました。
子供の頃は絶対にこんな親にはならないと思っていたのに忘れてしまうんでしょうね。
今の私があの頃の私の所にツカツカツカっと行って顔をひっぱたいてやりたいくらいです。
イジメられる原因を私が作ったんだなと思います。
もちろん、そのような環境の子供をいじめることを肯定してはいません。
どんな状況の子でもイジメはいけません。
でも、私は我が子にはそのイジメを跳ね返す力もなくなるような接し方をしてしまっていたんだと思うのです。
もっと、娘と私が楽しく毎日を過ごしていたのなら、こんなイジメに負けなかったと思います。
娘の心の安定、安らぐ場所、ほっとできる場所が私、家庭であるべきなのにそれができていませんでした。
あの頃に戻って子育てをやり直したいです。
中学校には幸運にも合格できました。
これで娘は楽しみながら学校へ行ける!
そう、確信していました。
でもそう思ったのも束の間、学校から自宅へ気分が悪いようだから迎えに来てほしいという連絡が入るようになりました。
私は仕事を離れられないので、義父に迎えに行ってもらいました。
進学校でしたので宿題も山程出て、それを仕上げることができず遅くまで起きていました。
授業もついていけなかったようです。
友達もできていませんでした。
かかりつけの内科に言ってもこれといって原因はわかりませんでした。
遅刻や早退の日が多くなりました。
「起きなさい!」「学校に行きなさい。」と大声で言う毎日でした。
でも、ベッドから出ようとしません。
「学校、言ってよね!」
と言っても起きようとしません。
ある時は「娘がいない!」と思ったら、なんと机の下に入っていました。
保育園生なら抱っこして連れていけますが、中学生で大きくなっっているのでそういうこともできません。
もう、動かせません。
それでも私は学校に行ってほしいと思っていました。
私も仕事に行かなくてはなりませんでしたので、学校に欠席の連絡をして職場へ行きました。
職場でそのことを話すと、上司が思春期外来の受診を勧めてくださいました。
本人も受診することを承諾し、これで学校へ言ってくれるものと思っていました。
「対人恐怖症になってますね。」と先生から言われました。
「学校へは行けるんですか?」
「しばらくは学校に行ったらいけません。」
と言われた時は驚きました。
小6の時、家出をすると言って出て行ったり、自殺したいと言っていたこともありました。
それを思うと、もう、限界だったんです。
それなのに私は学校へ行かないという選択肢を与えきれなかったんです。
今後、どのようにしていったら良いのか…。
途方にくれました。
学校に行かなくっても大丈夫なんだろうか?
この子の将来はどうなるんだろうか?
10年前の私には今のように学校へ行かなくても選択肢が沢山あることを知りませんでした。
「今の私なら、中学校なんか行かなくてもいいよ。
まずは美味しいものをいっぱい食べれるようになってアイドルでもドラマでも好きなことに夢中になったらいいよ。
心が元気になったら何だってできるよ。
今は充電期間だよ。」と言えます。
その頃の私はわかっていなかったのです。
わかったことは自分の今までの関わり方がいけなかったんだ!ということでした。
心理士の先生のアドバイスで中学校に行けない時は適応指導教室があるということでした。
出席日数扱いになるということもですが、娘なりにどこかへ所属しなければと思っていたようです。
中学校の保健室登校もできないほど、娘の気持ちは病んでいました。
中学校に着くと、学校の壁に顔が見えるといってました。
それが怖くてたまらなかったようです。
進学校の中学に通えたのは1ヶ月半くらいでした。担任の先生からは毎日の様に時間割を教えてくださる電話がかかりました。
でも、「明日も登校できません。」と私の返事。
私も担任の先生と関わることも娘が学校にいけないことが辛く嫌になってきていました。
思い切って「娘はもう、学校へはいけませんので連絡していただかなくても大丈夫です。ありがとうございます。」
やっとこの言葉が言え重要事項だけ教えてもらうことにしました。
中学校が合格してイジメをしていたことは別の中学へ行き、それでも不登校になったということで私が原因だったと思えました。
これが不合格だったら、「合格していたらこの子は学校にいけたのに。」と私のことだから思ったことでしょう。
適応指導教室は隣町の公民館の2階で行われています。
隣の町の適応指導教室が男子がいなかったので男性恐怖症の娘はこちらに入らせて貰いました。
仕事は辞めなかったので義父が送迎担当でした。
毎朝お弁当を作って出勤しました。
持っていったかな?と不安な毎日。
そのままお弁当が家にある日が何日も続きました。
「行っていない。」
自分が適応指導教室にいくってきめたじゃない!なんで行かないのよ。
いじめる相手や嫌な先生はいないでしょ!
本当に私は娘に高校だけは出てほしい、その思いは消えませんでした。
受験があるから学校のかわりの適応指導教室は行ってほしいと思うようになっていました。
それが娘のためにもなると信じて止まなかったのです。
毎週思春期外来に行き、娘は男性恐怖症にもなっていましたので女性のカウンセラーの方に見てもらいました。
私も必ず受診しました。
私は男性の心理士の先生で、自分の反省や悩み、これからどうしていけばいいのかを相談しました。
聞いてもらうことで私もだんだんと落ち着いてきて我が子により添えられるようになっていきました。
お店に行くときもお客さんが多いのが怖いので、開店間近とか、閉店間近とかなるべく人がいない時を狙って一緒に行くようにし、買い物を楽しみます。
少しずつ我が子に笑顔が戻って来ました。
中学1年
不登校になって適応指導教室にいく様になりました。
面接の時に一緒に行ったのですが、1年生はいなくて2年生、3年生が在籍していました。
どの娘も普通の女の子に見えます。
何があって不登校になってしまったんだろう。
娘もすぐに話しかけてもらえました。
そこには20代の独身の女の先生が2人と20代の男の先生1人いました。
男性恐怖症にもなっている娘にとっては、男の先生は大丈夫だろうかと思いましたが、その方は柔らかい感じの方だったので、娘も怖がることなく打ち解けてくれました。
勉強は3年生のみが行っており、2年生は何か作り物をしていました。
私は相変わらずここで過ごせば高校には行ってくれると信じて止まなかったです。
でも、毎日なんて行ってくれませんでしたし、行っても勉強なんてしていませんでした。
私は仕事をしょっちゅう休むわけには行かなかったので、送迎は義父でした。
もう少し私が送迎にも関われば、適応指導教室の様子がわかったり、1年間の目標なんかも聞けたかも知れません。
だから、何も把握しないままでした。
ただ、「今日は行ったよ。」と話を聞くと嬉しく安心していました。
お菓子作りや体育館を借りてバレーをやったりと勉強よりも活動が多かったようです。
今思えば、本人の好きなことを増やしてあげ、できた喜びをみんなと分かち合い、自己肯定感を養うことだったんだと思うのですが、その時は理解できてい私でした。
少しは勉強してくれたらいいのにと思っていました。
在籍している進学校からは、中間テストや期末試験は受験するかの確認をされました。
人がいない会議室で受験していいように言われ、娘は受けました。
もちろん問題が解けるわけないです。
なのに、受けるだけでも嬉しかったのは私だけでした。
それから、「学校に行くのは無理。」という娘の為にわざわざそのときの担任の先生が適応指導教室で受けれるように配慮して下さいました。
校長先生に相談してくださったんです。
娘はまだこの中学校の生徒なんだ、ないがしろにされていないとありがたく思いました。
テスト問題も車で20分はかかるのですが配達してくださいました。
テストの成績が悪いのは当たり前でしたが受けてくれるだけで良かったのです。
一応、適応指導教室には中学校の制服で行っていました。
それが見れるだけでもほっとするところが合ったんですね。
高校だけは卒業してほしいと思っていたんです。
今みたいにネットで稼げる世界があるなんてその当時の私はわかっていななかったから余計に高校卒業の肩書は必要と思っていました。
適応指導教室の先生や先輩たちとは仲良くなり、自分の場所をみつけたようです。
なんと、冬にはこたつが出ていてそこで寝ている時もあったんです。
それを心から喜べない私でした。
自分をさらけ出す場を提供してもらっているのに、そういうこともわからない私でした。
ありのままの姿を受け止めてくれる場所だったんです。
ありのままを受け止めてもらっているから、勉強も遊びもできます。
あの頃の私にそういうことを話してあげたいです。
今なら、娘にあたたかい言葉がけもできます。
「子育て失敗しました。」とよく言ってしまってましたが、そのことを言うと、娘自体の存在が失敗となるから絶対に言ってはいけないと言われました。
ほんと、そうですよね。
1年生の時も毎週1回は思春期外来に娘と母親の私が受診していました。
娘は男性恐怖症になっていたので、私が男の先生にカウンセリングをしてもらい、娘は若い女の先生でした。
若い先生は本当に優しくて娘は先生のことが大好きになり心を開いていました。
カウンセリングの内容も的確でした。
娘は人混みが苦手なんです。
人が少ない開店時間を待つようにして出掛けたり、閉店間際に行くようにしていました。
それでも人が少ない所に言っていました。
海にも行ってみたいと言い、2時間半書けて家族5人で行きました。
勿論人はいるのですが娘なりに挑戦したかったのでしょう。
高校生くらいの男の子がグループで来ていました。
大丈夫なのだろうか?
自分たちのテントの近くだったのですが、なんとかその場にいることはでき、娘にとって大きな収穫で、自己肯定感につながったようでした。
ほんと、私も「絶対、無理!」と返事が来そうでしたが、海に入ったりお弁当を食べたりと
見違えるほどで不登校のことは忘れてしまいそうでした。
「頑張っているね。」と声をかけると照れたような笑顔をみせました。。
しかし、良い時は適応指導教室もいくのですが、行かない時は何日も、私が仕事から帰って来る直前に起きる日々でした。
本人は体が思うように動かなくて辛かったと思います。
でも、私の感情は「適応指導教室くらい、行ってよ。」と相変わらずの考えでした。
保育園の先輩先生の子供さんが不登校という方が何人かいらっしゃいました。
そこで、色々とアドバイスをもらったり話を聞いて貰う機会がありました。
私は仕事をしていても娘のことを思い出し、涙が出そうになることがあるのですが
先輩先生方はそういう表情も見せられません。
私は人としてもまだまだ未熟だったんです。
自分本位、世間体ばかり気にしていました。
先生方に大丈夫だろうかと聞くと、「大丈夫!大丈夫。でもね、決めることは何でも自分で決めさせなさいね。お母さんが言ったから、こんな風にした!と言われるから。
何でも今からは自分の責任と思わせるように関わっていってね。」
温かい言葉で気持ちが救われるような気がしました。
反面、娘が不登校真っ只中の私にとってはすぐに受け入れることはできませんでした。
「過ぎてしまったから、言えるのよね。」
私の気持ちは荒波のように上にいったり、下にいったりと荒れ果てていました。
そんな私の気持ちを察して先輩先生方は必ず何度も「自分で決めたら、いけないよ。
必ず、〇〇ちゃんに決めさせてね。」と言ってくださいました。
思春期外来でも必ずそのような言葉をアドバイスしていただきます。
気分転換にあるアイドルグループのファンクラブに入りました。
娘が小学校のときから大好きだったアイドルです。
私がドラマを見せなかったアイドルです。
コンサートも当選しにくい噂が多かったのですが、なんと当選して行けるようになりました。
娘と大喜び、2人で跳ね上がって喜びました。。
私がコンサートに行くなんて、何十年振りだったのでしょうか?
今でこそ、自分勝手に出掛けたりしますが、同居ということもありその当時は自分だけの遠出でお出かけなんて行けること事態思っていませんでした。
それに、下に2人兄弟がいたのでその子達の世話をお願いして長女と出かけるという発想もありませんでした。
電車や都会の街並みすらいつ振りだろうと思いながら出掛けました。
コンサート会場のワクワク感。グッズも2時間娘と寒空に並びやっと買えたときの達成感。
そんな気持ちを味わう事ができました。
コンサート会場まで先輩先生と一緒でした。
ホテルのレストランで食事をしたのですが、私と娘2人だったら、とても行ける勇気はなく経験できませんでした。今まで味わえなかったことを2人で体験でき笑顔が増えていきました。
もちろん、コンサート会場に入ると興奮しました。
今まで子育てで出かけるなんてめったにありませんでしたし、近所の農道か良くて県内の公園が唯一のお出かけでした。
異次元にきたような空間でした。
子育てはお金がかかる、お金の無駄使いはいけない。
子供が小さいうちにお金は貯めなければいけないと思っていましたし、子育て時期はよく聞いた言葉でした。
「今のうちにお金貯めておかないと、大きくなったらもの凄くお金がかかるからね。」
「小さいうちに一緒に遊んでおかないと、大きくなったら親に着いてこないからね。」
私は前者のことを重要視し、遠くに遊びにいったのは一回だけでした。
お金にも余裕はありませんでした。
今思えば、いくら大学に行くお金を節約して必死に貯めても本人に学校に行こうという気持ちをなくしてしまう関わりでは意味がなかったと言えます。
小さい頃は戻ってこないので沢山楽しく一緒に過ごすべきでした。
子供は心の充電ができていたのなら、自ずから学び出します。
結果的に私はお金も満足に貯められず、娘に進学のエネルギーすら与えてあげることもできなかったんです。
過ぎてみて、いかに小さい頃の関わりが大切かと実感しました。
「可愛いね。」「大好きだよ。」「できたね。」
と笑顔で言っておけばいいんです。
そんな簡単なこともできていない私でした。
感情的になってしまう私で、大人気なかったんです。
感情的になるのは、仕方ないと思っていた自分もいたのですが、子供にとってはいい迷惑です。
大人の私はもっと考える力もありますし、感情的になりそうだったらその場から離れたり、甘い物を好きなだけ食べたりと感情を抑える方法はいくらでもあったんです。
一番やってはいけないことは意味もなく感情的に怒ることだと思うのですが、見事にやっていました。
この繰り返しが思春期に親も大変な目に合うということをその時は知らなかったのです。
コンサートでは本当にこの人達はいるんだ!と遠くに見えるアイドルに感動したものです。
また行きたい!娘以上に私が強く思いました。
現実逃避の思いもありました。
そして、このコンサートというものが娘とともに幸せを感じられる空間になっていきました。
それでも私は高校に行ってほしいという気持ちは変わらなかったので、「今度の試験で〇〇点だったらDVD買ってあげるよ。」と相変わらずのダメ親振りです。
今の私なら「そういう言い方NGだよ。せっかく好きなこと見つけているのに、テストと一緒にしたらいけないでしょう。」
そう言えます。
思春期外来ばかりではなくスクールカウンセラ―の相談も入れていました。
その度にコンサートのことや、物で釣っていることも話しました。
不登校は辛いことも話しました。
「中学校で不登校になったからラッキーって思っていいよ。」
「義務教育だから、全然学校行かなくても卒業はできるからね。」
思春期外来の先生に至っては、「中途半端に学校に行くよりも、3年間しっかり休んだ方が高校に行く気持ちになりますよ。」というアドバイスで肩の力が抜けていきました。
アイドルの都会開催のみのイベントに当選しなくてもグッズだけの購入の為に泊まりで行くこともありました。
今までの娘の進学の為の貯金を使い果たしながらでした。
「でも、今しかない。」という思いも強かったのも事実です。
スクールカウンセラーの先生は「アイドルをここまで追っかけるのもある意味、自信につながっているからいいですよ。」
思春期外来の先生も「飛行機をつかったりホテルに泊まったり、新幹線に乗ったりと今の経験が大人になって働いた時、出張に自分で行けるということに繋がりますよ。」「そういう経験していなかったから出張も一人で行けないという人も案外多いんですよ。」
田舎だから特にそういうことに繋がると思えましたし、私が行ったことを必ず肯定的に受け止めてくださった先生方でした。
感極まってカウンセリングを受けながら泣いたこともありました。
出口が見えないトンネルを娘と二人、時には一人だけで歩いていた気がします。
でも、カウンセリングの先生方に毎週頼り、1週間やっと生きていたという感じでした。
とても待ち遠しい時間でもありました。
その頃の中学校では、1年生のときの先生は面談の時に「このまま中高一貫校だから高校にそのまま行けますし、短大や専門学校ならゆっくりと高校生活が送れますよ。」と言って下さいました。
2年制のクラス替えのとき娘が唯一好きと言っている先生のクラスにしてもらいました。
夏休みには一人だけ理科室で補講を行ってくださいました。
残念ながら1日しか行けなかったですが。
進学校の中学校なのにここまでしていただけるとは思っておらず、とてもありがたかったのを覚えています。
3年生になったので、義父ばかりに送迎などを頼んではいけない、自分が任せずに娘の件は行っていこうと思って、仕事を辞めました。
3年生になり好きな先生のクラスにしていただきましたが、ほとんど行けませんでした。
でも、きちんと対応してくださることがありがたく嬉しくもありました
適応指導教室では同じ中学校の後輩も来ていました。
その子は制服登校は嫌と言って教室には私服で来ていました。
でも、その子は学校へ行くんです。週に1~2回だったのですが、文化祭の合唱コンクールにも出場できました。
「なんで!私の娘は行かないの!。」
常に学校へ行って欲しいと思ってしまう私でした。
秋になり進路を決める季節になりました。
娘はファッションデザイン科に行くことを決めていました。
私に似ているので裁縫は苦手だから無理と思っていましたが、適応指導教室の先生と毎日の活動の中で裁縫を行っていました。
コースターやランチョンマット等、可愛く作っていました。
今の中学校なら受験せずに高校は進学できますが、受験をしてファッションデザイン科に行きたいといいます。
県立高校の受験に不安はありましたが、受験することを決定しました。
これで真剣に勉強してくれるはず。
つい、「勉強しなさい。」とまだ言おうとする私にカウンセリングの先生や適応指導教室の先生は止めてくださり、「本人の決断が最優先だからね。」と念を押してくれました。
ファッションデザイン科を受験すると言いつつも、通信制高校に行こうか迷ったり、進路を確定したのは、1月中旬でした。
また私が焦りまくりましたが、週1回のカウンセラーでたくさん話しを聞いてもらい、不安を少しでも取り除いて貰ったのでなんとか日々を過ごせました。
私立の受験の日、以前の学校の子に会うので心配していましたが無事に受験し合格できました。
県立高校も2日間、私が車で連れていき駐車場で4時間待っていました。
「合格しますように!」と手を合わせて祈っていました。
県立高校合格発表の日。
高校まで一緒に見に行きます。
ドキドキしながら、掲示板を見るとありました!
娘の番号が合ったのです。合格しました。
「やった~!」
嬉しくて嬉しくて、抱き合って喜びました。
頑張ったね。
娘を信じてあげなければと思いながら、なかなかできない私に娘に関わる全ての方から助けていただきました。
娘に対する言葉掛けから、学び、私が一番成長できたようでした。
娘は中学校に行けなかったので友達は少ないけれど、カウンセリングの先生はじめ沢山の先生とかけがえのない出会いがあったと思います。
それと同時に私の心もたくさん成長ができた気がしました。
でも、期待した高校生活は楽間的な物ではありませんでした。
高校に見事合格し、制服や定期券を買ったりと準備も嬉しい時間でした。
ファッションデザイン科は40名くらいのクラスで女子ばかりです。
自宅から駅まで送迎し、そこから電車での通学でした。
同じ中学の子は一人もいなくて、地元の中学から一人来ていただけでした。
朝は7時代の電車に乗ることになるので6時55分には家をでないと電車には間に合いません。
果たして朝起きれるのだろうかと大きな不安はありました。
私がエンジンを掛けている車に慌てて乗り込み車中で朝食を食べる毎日でした。
それでも、間に合わない時は義父が片道50分かけて送ってくれました。
私も職場を娘が電車利用の駅付近に変えました。
自分が遅出出勤の時は高校まで送迎し、そのまま遅出勤務に入りました。
友達はできていないようでした。
最初はお弁当を食べる人はいたようでしたが、「今日も一人で食べた。」というようになり、保健室にお世話になりながらの日々でした。
入学の際に担任の先生と保健室の先生に不登校のことも話し挨拶していました。
保健室の先生は同じアイドルのファンで話も盛り上がり、娘は保健室を良く利用し自分の居場所としていました。
休んだら今度は留年になるので、学校にとにかく行ってほしいと思いました。
娘もその気持ちはあり、本人なりに頑張っていたようです。
でも友達もできず、実際にやってみたファッションデザイン科の実技は思ったよりも難しく居残りの作業もこなしていました。
部活動は入っていなかったのですが、19時30分に駅に迎えに行くようにしていました。
晩ごはんは、義母が作ってくれ毎日20時近くに帰宅していました。
下の2人の子のことが気になっていましたが「叱る」ということをしなかったことと「ごめんね。いつも遅くて。ありがとうね。」と言葉をかけていたからか特に荒れることもなく過ごしてくれました。
私は持ち帰りの仕事もあり、元来早起きは苦手で娘の弁当と主人の弁当を作り自分の支度をして朝7時前に家を出るのが大変でした。
弁当も申し訳ないくらい、茶色弁当。
冷凍食品のオンパレードでした。
もっと、色とりどり入れてあげて、お弁当のことでも友達と会話ができるようにしてあげればよかったと今頃反省します。
先輩先生は「娘の友だちに〇〇ちゃんのお母さんお弁当作り上手ねっていつも言ってくれるのよ。」と喜んで言っていたのを思い出します。
そういうことでも、友達と話すきっかけにもなるのに私は相変わらず、自分のことで精一杯で弁当作りにまで力が入りませんでした。
こんなに娘は頑張っているのに…。
ファッションデザイン科の服作りは、進まないことも多く、居残りで先生に教わり家でも作業をしても終わらずにいました。
実技は苦手でしたが、一般の科目は平均点くらいは言っていたのが救いでした。
朝テストはいつも満点で自信にもなっていたようです。
でも一向に友達はできず、お弁当を食べる子がなんとかいるという感じでした。
高校になっても思春期外来の方は受診していました。
私も娘と一緒のカウンセラーの先生に気になるときがある時に受診していました。
先に娘に受診してもらいその後に娘には内緒で私も受診し、何を悩んでいるのかを聞き私の対応法をアドバイスしてもらっていました。
私は待てない性格だったので、とにかく黙って待ってあげる事をアドバイスされていました。
それでもつい急かしていました。
2年になったからと言ってクラスは変わらず、友達というよりは時に一緒にいてくれる人がいるくらいでした。
アイドルのコンサートは私ではなく同じクラスの子と行くようになりました。
その子は、残念ながら同じクラスなのに、その時だけ仲がいいという感じで普段は特に一緒にはいてくれませんでした。
2年生は修学旅行があるのでこういうことも私は心配でした。
友達がいないので修学旅行は嫌で仕方なかったようです。
中学校でも修学旅行には行っていなかったので、いけたらいいなぁと親は思っていたのですが本人は行きたくないと出発当日まで言っていました。
でもなんとか行ってくれ、ホッとしたと共に自分なりに頑張っている娘に成長を感じました。
無事に帰っては来たものの、娘から楽しかったという言葉はなかったです。
頑張って来たんだろうなと改めて思った日でした。
フッションデザイン科では、やはり不器用さが出てきて苦手になり、補講を受ける為に残ったり土曜日にも学校に行ったりしていました。
それでも検定などは落ちてしまって、泣いている日もありました。
夜ご飯も食べる暇がないと言って作業をするのですが、出来上がらないんですね。
不器用な娘にはかなり難しいようで夜遅くかかってもダメでした。
検定には落ちても卒業はできるということを担任の先生に言ってもらい安心していました。
でも、よく休むようになっていました。
「後、何日休んだら留年よ。」と休んでいい日を、把握するようにしました。
無理に学校に行く必要はないのでギリギリでいいから卒業だけはしてほしいと思っていました。
ファッションデザイン科は間違っていたと本人は思うようになっていました。
高校に行くのもやっとの思いで行っていて笑顔も少なくなってきました。
休む日も多くなって電車で行けたらいい方で義父や私の遅出、休みの日は片道50分の送迎が当たり前になっていました。
それでもいいから高校だけは卒業してもらいたいと家族全員が協力してサポートしてきました。
でも本人はもう、限界だったようで行きたくないと口に出すようになったり、休みがちになったり保健室登校が多くなっていました。
「夏休みに入るとどうなるだろう。まさかこのまま行かないとは言わないよね…。」
そんな思いも私のどこかにありました。
「お母さん、学校辞める。」
「えっ、あと少しよ。もったいないじゃない。」
「通信制の高校に行く。」
「通信制も大変だってよ。今まで頑張ってきたじゃない。」
そう私が言っても気持ちが変わるはずはありません。
思春期外来に慌てて電話をしました。電話での相談も担当のカウンセラーの先生は短時間なら聞いて貰えます。
この一大事を早く相談したい気持ちが大きかったのです。
「こちらからも話してみますね。」
カウンセラーの先生のその一言で私は気持ちが落ち着きました。
なんとか卒業だけはして欲しいと強い思いがありました。
「お母さん、やっぱり学校行くよ。」
「大丈夫なの?」
「〇〇先輩が通信制よりも高校卒業したほうがいいよ。もったいないからって言ってくれたから頑張って卒業するね。」
この一言に安心しました。
私達大人が同じ様な言葉を言うよりは、身近な先輩の声が娘には響いたようです。
就職活動になりました。
ファッションデザイン科でしたが、被服の方には進まず某会社を受けることにしました。
それでもその会社は立ち仕事が多いから、起立性調節障害の娘は「辛いから受験できない、もし、途中で辞めるようになったら来年からの学校の採用に迷惑がかかる。」と言うのです。
「大丈夫よ。学校に迷惑なんてかけないし、理由が理由だったら会社側もわかってくれるよ。」と言っても、迷っていました。
もちろん親子共々、困った時は思春期外来に相談に行きました。
1週間に1回は予約を入れていました。
相談することで心配していたことは回避されました。そのカウンセラーの先生を娘は信頼していました。もう、6年間相談させてもらうことになります。
私も相談することでストレス発散になっていました。
会社を受験することになり落ちる人も数名は出ることがわかり祈るような気持ちでした。
その祈りが届いたのか娘は無事に合格できました。
9月の早い段階の就職試験でクラスの中では早く就職が決まったのですが、娘は不安で押しつぶされそうな日を送っていました。
やはり起立性障害なので立ち仕事にもの凄く不安があったのです。
薬も飲んでいたのですが、効いているような感じはありませんでした。
一度病院受診もしたのですが、年齢とともに改善すると言われ特に治療は必要ないとの事でした。
「もし、働いていて無理なら辞めていいよ。事情を話せばわかってもらえるよ。」
「でも、私が辞めたら高校にその後求人が来なくなるよ。」
自分よりも高校のため。
本当に真面目で良い子です。
私は心が痛く、今までの自分の関わりを心の中で誤りました。
3月に晴れて卒業できました。
友だちはあまりできなかったので、ある程度の時間でみんなに挨拶をして学校を出ました。
「頑張ったね。おめでとう。」
心からそう言いました。
帰りに娘と2人で地元では有名なケーキ屋さんでお茶をして帰りました。
気持ちの良い晴れた日、娘の卒業を祝ってもらっているようでした。
いよいよ社会人1年目となります。
車で出勤する予定だったのですが、なんと、自動車学校も登校拒否になってしまったんです。
もう、ビックリです。
原因は何だったんだろうかと思い出してみました。
先生がイヤとか、友達がいないとか色々言っておりました。
高校帰りに途中下車して歩いてすぐの自動車学校に行っていたのです。
自動車学校は本人と話し合って決めたのですが、まさかの不登校で私は仕事中もこのことに付いて考え集中できませんでした。
ド田舎なので車がないとどこにも移動できないんです。
バスと言っても、1時間に1本あったらいい方で、バス停から降りてしばらく歩くのも少し距離があり、運転免許が絶対にいるんですね。
それでも、自動車学校に行かないことには免許は取れないのでどうしようか迷っていた所、今度就職する会社が会社近くの自動車学校なら、職場から抜け出して行ってきて戻ってくればいいと提案してもらったんです。
娘もその提案に納得し、なんと自動車学校を変えることになりました。
転校と言っていいのかわかりませんが、自動車学校を転校したんです。
すごいですよね。自動車学校を転校するなんて。
まさかここでこんな大きな落とし穴があるとはさすがに思っていなかったです。
でも、自動車学校の転校には、払い戻しもありました。
しかも、次に行く自動車学校さんに現在通っている自動車学校さんが一筆書いて頂けたんです。
どこまで進んでいるとかの進捗状況ですね。
嫌な顔一つせずに対応してくださった事務の方にも感謝でした。
それに、何より今度就職する会社の多大な配慮がありがたかったです。
「自動車学校くらい、行ってよ。」「こんな田舎で暮らすには、自動車は必須なの!それくらいあなたもわかるでしょう!!」
以前の私なら、ズバッとイライラしながら言ったと思いますが、はらわたが煮えくり返ルオモ位をしながらも、我慢しました。
さすがに娘本人も申し訳ないと思ったのか、最初はバスで出社していました。バスの便数がないことで結局は私と職場が反対方向だったので、義父が送って行くことになりました。
帰りも時間が合えば主人や義父の迎えでした。
やっと主人の出番!と言う感じで主人も頼られるのが嬉しいようでした。
職場の途中で自動車学校に行き、それからまた職場に戻ったり、夕方からの予約だとそのまま自動車学校の車で家に帰ったりしていました。
「自動車学校でしょ。もう、いいよ、早く準備してね。」
やさしい先輩方に助けられました。
今度は、しっかり通学し仮免、本免も一発合格しました。
自動車は早く予約を入れていたので、すぐに納車できました。
休みの日には主人と通勤までの練習を行い、自分で通えるようになり、一安心でした。
幸い、この会社の出勤時間はそう早くないので、出勤ラッシュとは重ならず、初心者ドライバーも安心して運転できていました。
内定をもらってからも、喜びよりは心配が多かった娘です。
私も特に心配したのが、新人オリエンテーションです。
しかも、2泊3日の宿泊研修でした。
泊まれることはができるのか、不安でしたが同じ同期の女の子と喋れるようになっていたので、宿泊することに抵抗がなかったようでした。
また、立て続けに隣県エリアの研修も2泊3日とあり、きちんとこなせるだろうかと心配していました。
朝起きれるだろうか、ホテルは一人で大丈夫だろうかなど店舗から新人1人ずつの研修でしたので、心配はつきませんでした。
でも、中学校高校とアイドルのコンサートの為にホテルを利用したり、ど田舎では経験しないバス電車地下鉄、新幹線といった公共交通機関の使い方もマスターしていたので、そういう面の不安はなく、私の心配はよそに研修もこなしていました。
私は、小さい時に親と出かける経験がなかったので、公共交通機関の使い方が不安で研修などはまず不安でした。
不登校真っ只中の時に言ってくださったカウンセラーの先生の言葉は今、役に立っていることが実感できています。
勉強のことばかりを心配していましたが、もっと大切なことを教えてくださっていたことにやっと気づき始めました。
中学1年生の後半にカウンセラーの先生が私立高校を勧めてくれたのですが、私は金銭面もですが世間体もあり、県立高校に行ってほしいと話したことがありました。
「お母さん、高校をどこに行くかということよりも、社会人としてどう生きていけるか、いい方向に導いてあげるのが私達の役目ですよ。」
「そうかも知れませんが、その私立高校なら校風が校風なのでまた、不登校になると思います。」
目先のことばかりしか考えられない私でした。
社会人としてどのように世の中に関わっていけるかが大きな目標だったと言われた意味がやっとわかりはじめました。
立ち仕事のことも、「お母さん、案外座って仕事できたよ。」
「立っていても、下の方を片付けたり、掃除しながら座って調子整えられるよ。」
と自分なりに考えて1日を終えているようでした。
笑顔で会話してくれることも多くなりました。
また、それが本人の自信になっていることが手に取るようにわかりました。
同級生ばかりの教室では、息苦しい辛いといった感じでしたが、職場ではとても可愛がられ、仕事もきちんと覚えていき少しずつ任せてもらえることでやり甲斐も感じていたようです。
なんと、休みに日には小さい子供がいる先輩の家族のお出かけに同伴したり、店休日には食事会があったりと、様々なことにも参加でき楽しめていました。
10年前、小学校低学年の先生が「小学校の先生に向いていますよ。」と言われ、真に受けた私はそれをいつの間にか夢にしていました。
給料がいい、ボーナスも退職金もある!!
お金に困らない!
そう思いました。
お金に困らないで一生暮らせる!そう思ってしまったんですね。
ガミガミ叱り飛ばし、私の言うことを聞く事で夢は叶うと思っていたのです。
でも実際に自分の娘が会社員になって、給料は学校の先生よりも少ないけれど、こんなにやり甲斐を感じきれたら、これでいいじゃないかとやっと思えました。。
レベルアップの為に研修や試験もありました。
仕事を終えてからの勉強は大変でしたが、先輩から教えてもらったり同期の子と教え合ったりしてこなしていきました。
初めてのお給料日に店長が「今まで育ててくれた親に感謝を伝えて、それから何かあげなさいね。」
まだ、私より若い店長でしたが、そういう事も話してくださりとてもありがたかったです。
自分からそんな事は思っていても言えませんからね。
「お母さんはいいから、おじいちゃんおばあちゃんにあげてね。」
そう言って、私の実家にも少しプレゼントをするように言いました。
義父母、実家の母や祖母もとても喜んでくれました。
みんな、なかなか口にしては言えないけど娘のことは、とても心配していたので、心底喜んでくれました。
休みの日には、友達と飛行機に乗って遠方までコンサートに行ったり、買い物に行ったりと充実しているように見えました。
これで一安心。
そう思っていました。
ある日、「お母さん、私仕事辞める!一人暮らししたい。!」と言い出しました。
一人暮らしの事は以前から聞いていたので、「職場近くに住んだり、近辺の県までならいいよ。」と言ってましたが、「首都圏に引っ越す。自分で決めてきた。」と言います。
驚くほどの行動力で、高校卒業して2年間で100万円程一人暮らしをするために貯めていました。
遠方、しかも首都圏は田舎者の私からしたらとても怖くて、行ってほしくなかったのですが、高卒の田舎の安い給料で100万円貯めたとなると、「行くな」とは言えずに送り出すことにしました。
出発する日に私も休みをとって一緒に付いていくことにしました。
人生で4度目の飛行機にドキドキしながら乗り込みました。
新築のきれいな小さなマンションで私の方がここで一人暮らししたいと思うほどで娘の一人暮らしの夢も十分理解できました。
仕事はこちらに来てから探すということでまだ荷物もほとんどない部屋で1泊しました。
私が娘の年に一人暮らししたいという気持ちはありましたが、近隣で済ませていたと思います。
東京に憧れがなかったわけではありませんでしたが、一人暮らしの場所には選ばなかったでしょう。
それに比べて、娘は現地の友達まで作ってしっかり一人暮らしの準備をしました。
仕事も自分で職安に行って探し始め、節約のためと自炊も始めました。
コロナ渦で一人暮らしは大変ですが、娘なりに頑張っています。
学校に行きたくないと言っていたあの日、娘がここまで頑張れる日が来るとは思っていませんでした。
たくましく成長した娘にありがとうと感謝の気持ちでいっぱいです。
コロナ渦でアルバイトをやっていた娘は失業の身になりました。
「帰ってきなさい、仕事もなくなったから大変でしょ。」と言っていたのですが、なんとか職につくことができました。
娘はパートだったのですが、社会保険も付いていて安心していました。
同じ系列の会社を3店舗こなしたりと仕事を任せられることも多くなり、長女なりにやりがいを感じていました。
また、上京してきて以前の店舗も今回の職場でも上司に褒められたり頼りにされているようでした。だから、学生の時落ち込んでばかりいたのですが、その時とは全然気持ちも違い自信もついてきていました。
そのようでありましたが、コロナで失業していた期間がアルバイト期間中で失業保険も出ず、やはり生活が苦しくなっているようでした。
職場が遠いこともあり、引っ越しを考えていましたが、経済的に厳しかったようです。
何度か仕送りはしたものの、限界があり本人もようやく帰って来ることを決断しました。
やっと慣れてきた全く知らない土地、可愛がってくださり頼りにしてくださる職場とさよならをするのはとても残念そうでした。
でも親の身になったら、近くに娘がいるのはとても安心です。
会社に辞めることを伝えると、上司はとても残念がってくれ仕事はアルバイトなのに実家から通える範囲の店舗を紹介していただきました。
本当にありがたいことです。
こちらの勤務地でも可愛がられていて、様々なことを任せてくださり、また、首都圏の勤務先からも、また戻っておいでねと時々メールをもらっているみたいです。
いつかは首都圏にひとり暮らしをしたいと思って日々過ごしています。
娘の小さい頃は、自分の人生を振り返り、私みたいにならないでほしいという思いから良かれと思って行ってきたことが、実は娘を傷つけていました。
やっと、生まれた可愛い我が子に沢山の幸せが訪れるようにと願いながら育ててきたつもりです。
保育士をしていたので、「ここまではこの年令でできたほうが良いよね。」とトイレットトレーニングを頑張ったり、ボタン掛けを練習したり家でできることはなるべく行いました。
年中で保育園に預けたので、家でできることは身に付けさせなければならないと思っていたんです。
それをうまくできたら良かったのですが、身につけさせる時はいつも怒って教えていました。
それが一番いけなかったのに、いけないことに気が付いていませんでした。
最悪です。
今でもやり直せたらやり直したいです。
怒るという行為は自分が怒られながら育てられ、独身のときの職場も怒って保育していました。
30年以上前の保育は怒って子供を指導する保育園も沢山あり、私もそういう保育園で働いていましたのでそれが、正しいと思ってしまっていたのです。
それにここまではできるはずと保育園の子供を思い出し、家でもできるはずと思い込んでいました。
同じお利口な子供でも、保育園の姿と家での姿は違うのが当たり前なのにそれすらもわからないでいました。
怒って身に付けさせても気持ちが萎縮していますので、その時はできるようになっても次回する時はできない様になってしまいます。
子供はできなくて当たり前、今日できてもまた明日できなくなってしまうこともあると思えるようになることが大事です。
怒らずに何度も何度も繰り返し伝えるということが大切だったんです。
根気強く、丁寧に。
できなくなっても、今できなくても年齢が助けてくれることもあるのです。
それも、後になってわかった私です。
保育士だから余計、今できなければいけないと決めつけていました。
そういうところが間違いの元だったんです。
おおらかに、関わってあげればよかったんです。
もう少し大きくなったらできることも多かったのです。
バタバタと忙しい私で怒った印象しか長女にはありませんでした。
いつも手紙を書いてくれても、返事はあげたことはなかったと思います。
3人の子育てを一人でしているような気持ちでいました。
義父母とも今のように話すことはなく、今思えばもっと甘えて頼りにすればよかったんだと思います。
だいたい一緒に行動することがイヤでした。
こういうところが私が子供だったんでしょう。
義父母もいびったりする人ではなかったのですが、若い時は一緒に行動したくなかったんです。
私のいとこでお姑さんと子供と3人で出掛けているのを見て、「よく一緒に行動できるよね。」と思っていました。
でもこういう事が子供も母親依存にならなくて母親自身が育児から開放されたり、ホットできる時間も持つことができるのに、私にはできなかったんですね。
さすがに3人産んでからは頼らなくては子育てできなかったのですが。
素直に、「ありがとう。」とか「ちょっと見ていてね」って言えば良かったと思います。
嫌な顔なんかせずに見てくれるのに、勝手に私が距離を置いて何もかも自分一人で背負っていたようです。
子供は怒ってばかりの親にはブスッと返事をしたり、無視するようになります。
長女の宿泊訓練のとき、私と一緒にはいたくなかったようですが、近所の子は母親と友達感覚で話していてとっても笑顔でした。
小学3年生の弟も同じクラスだったのですが、その弟もお母さんと笑顔で話をしています。
他の子もお母さんと笑顔で話していているのに、我が子だけは私を避けるようにしました。
最初は「えっ、なんで。我が子だけ私と話さないのは!!」と思ったのですが、すぐに気づきました。
私が怒ってばかりいるから、私と距離を置いているんだと思いました。
長女ばかりではなく、長男も同じ様に私を嫌がっているのがわかったんです。
その頃は「勉強しなさい。」「片付けなさい。」が口癖でした。
それを辞めて、怒らないようにすると長男は私に甘えてくるようになりました。
わざと後ろから飛びついてきたりもしました。
本当は甘えたかったんです。
甘えたい時はもう小学生だから中学生だからではなく、甘えさせていいんだということを聞いたことがありました。
スキンシップを求める時はそれに応えてあげることで安心し、学校という子どもたちにとっての社会で頑張る原動力になります。
長女の件があって、つい、いつもの口調で叱りがちな私も気をつけるようにしました。
やはり「親が変われば子は変わる」とよく言われますが、本当に実感しています。
私が変わることで、子供も変わりました。
可愛い我が子には、自分が生きてきた中でダメだった事はさせたくない、いい方向に行くようにレールを引いてあげてそこを歩かせたいと思ってました。
それが大きな間違いなんです。
一番やってはいけなかったことは、イジメがあっているときにも我が子を守ってあげなかったことです。
あの子も大変だからこんなことをしたんだと思う馬鹿な親でした。
何度も小さい頃から、長女はSOSを出してきたんだと思います。
それを気づいてあげなかったんです。
気づいても、勘違いじゃない、それは少しズレているよと捉えていたと思います。
我が子がやっとの思いで訴えているのに、それに耳も心も傾けてあげなかったんです。
我が子を母親が信じなくて誰が信じるのでしょう。
子供は本来、いい子に成長しようと思っています。
その力は母親や家が安心して安らげる場所で育まれます。
私の幼少期の家庭も父がヒステリックで少しも安らげませんでした。
嫁ぎ先が安らげるように私も少しの工夫でできたのですが、それをしなかったんです。
大人はストレス解消の方法はいくらでも自分で見つけ出せます。
でも、子供は泣いたり、怒ったりしかできないんです。
それをわかってあげ、受け止めて上げると子育ては楽になるんだと思います。
私がいろんなことを知らなすぎたことと、子育ては怒ってするものだと大きな勘違いをしていたことが娘の不登校の原因を作ったと思います。
怒るのが子育てではなく、一緒に親子笑顔で楽しめば子供は勝手に親元から離れていきます。
巣立っていきます。
親が困っている時に助けてくれます。
長女に辛い思いをさせてしまって、今でも私一人になった時に謝る時もあります。
でもこの事で長女の周りの人はいつになっても、いい人が関わってくれていることに気づき、私も精神的に大きく成長できました。
ダメ親でたくさん辛い思いをさせてきたけれど、今やり直しています。
笑顔が一番ということに気づけました。
今からもいい方向にいくように、娘と一緒に歩んでいきたいと思います。