2021年12月14日
子育て
誰にでもある人生の分岐点、大きな転換期、いい場面もあれば、悪い場面もあります。決して交互に訪れることはありませんが、一歩ずつ進めていく人生という長い道のりの中で、誰しも一喜一憂する場面に出会います。
2015年に今の旦那さんと出会い、翌年7月に結婚、お腹には長男がいました。
20代で結婚する夢は早々に打ち砕かれ、新しい職場ではとにかく仕事を軌道に乗せて、たとえ今後独り身であっても生きていけるようにならなければ、と少し狂気じみた思いで仕事に打ち込んでいたところ、主人と出会いました。第一印象は、仕事柄もあるのか私より5歳も年下なのにとても堅物で面白みがない、という印象しかなく、向かい側の席に座っていても仕事以外の話をすることはほとんどありませんでした。そんな主人とまさか結婚し、まさかまさか子供を授かり、信じられないけれど今日念願の結婚式を挙げているなんて、当の本人が一番驚いています。結婚が決まったタイミングで妊娠が発覚し、結婚式をすることなく妊婦生活がスタートしました。こんなはずじゃなかった、とい思いも少なからずありましたが、そんな思いも今日という日を迎えられたことで全て帳消しです。大きな式ではなく、家族婚だけど、お色直しや前撮りもなくドレス1枚で完結してしまったけれど、それでも私は人生最高の幸せを噛みしめていました。両親に晴れ姿を見せてあげられたこと、大事な息子も式に参加できたこと、何より自分の人生において、結婚式という一大イベントが開催できたことは、今後の私自身の人生においても大きな糧となる出来事だったと思います。
そんな特別な日を迎えることができたのも束の間、それは一瞬で過ぎ去りました。もう身分は1歳半の息子を育てる母ちゃんです。式さえ終われば夕飯のことを考え、子供をお風呂に入れるために素早く準備し、髪の毛をちょんまげにまとめて寝かしつけまで余裕なく突っ走るだけです。つい先ほど結婚式を挙げていたなんて自分が一番信じられません。これは今後子連れ婚をする方皆さんに大きな声で言いたいです。子連れ婚の素敵なパンフレットやインスタグラムの投稿写真をたくさん見て、憧れる毎日でしたが、素敵でいられるのは一瞬です。その一瞬限りです。式後はまたいつもの日常に戻っていくのです。私も人生最大のキラキラタイムは光の速さで過ぎ去りましたが、それでも私は本当に幸せでした。
そんなまたいつもの日常に戻り、式の翌週末、お仕事がお休みの土曜日に、主人が出かけようと珍しく前日から計画を立ててくれました。結婚式を終えたばかりで少し休みたい気持ちもありましたが、主人が珍しくお出かけの計画をしてくれているし、息子も連れて行ってあげたい、そんな気持ちで土曜日を迎えました。私自身疲れもあり、朝起きるのも、朝ごはんやお出かけの準備をするのもまあまあ辛かったですが、何とかこなしている横でまだ寝ている主人。我が家ではいつもの光景で、普段は何も感じませんが、この時だけは、無性に腹が立ち、イライラが収まりませんでした。疲れているのは一緒なのに、出掛けると言い出したのは主人なのに、なんで家を出る予定の30分前なのに爆睡しているのだ。とにかく絶対に許さない、そんな気持ちでいっぱいでした。ようやく起きてシャワーを浴びに行く主人を追いかけて行って、「いい加減にしてよ」「信じられない」類の言葉をとにかく怒鳴り散らしました。あまりの怒りで私自身も何を言っているか分からないくらいの勢いです。呆気にとられる主人に当てつけのように、思いっきり浴室のドアを閉めました。名誉のための補足ですが、後にも先にも主人に怒鳴り散らしたのはこれ1回です。
お互い気分が悪いまま、とりあえず出かける準備をし、家を出ました。気まずさはありましたが、家を出て少し気分が紛れました。目的地へ向かう電車に乗り込み、しばらくすると猛烈なだるさに襲われました。やっぱり疲れているのかな、などと思いながら空いている席を探し、座ったところすぐに眠り込んでしまいました。目的地までは電車で20分程度、主人に起こされるまで全く記憶がありませんでした。気を取り直して電車を降り、目的地である展望台に向かいました。少し寝たこともあり、また初めての場所ということもあり、息子と一緒にたくさん写真を撮りました。帰りにお茶をして、のんびりお散歩をして帰路につきました。帰りの電車に乗り込み、夕飯はどうしようかなどと考え事をしていると、また行きと同じようなだるさに襲われました。今度は立っているのもしんどいくらいで、すぐに席に座るとまた最寄り駅まで眠り込んでしまいました。主人に起こされ、ぼんやりしながら帰宅したのをよく覚えています。主人は朝のことがあったので、内心びくびくしながらの帰路だったと思います。いつもとは違うハプニングもありましたが、どうにか1日を終え布団に入ると、また一瞬で泥のように眠ってしまいました。今考えると、この時点で少し体に異変が起きていたのだと思います。
その日のことはまたすぐに忘れ、週明けからまた息子と過ごす平日が始まりました。我が家は、主人の通勤時間が電車で1時間ほど、仕事も残業が多く俗にいう「ワンオペ」でした。初めての子供であること、またどちらの両親も遠方に住んでいるためなかなか頼ることができないことなど、私自身育児の大変さを身をもって感じる場面が多かったです。結婚式を終え、それまでの準備等で息子にかまってあげられなかった時間を少しずつ取り戻そうと、週明けから息子と近所の公園に出かけました。しかし帰ってくるなり床にへたり込んでしまいました。息子のご飯を用意しなければいけないのに、全く動けないのです。どうしたのだろう、と不安な気持ちがよぎりました。疲れていることは週末から感じていましたが、異常な疲れです。体が全く言うことを聞いてくれない感覚です。とりあえず息子のご飯を簡単に済ませ、どうにか1日を終えました。そんな日が何日も続き、さすがに心配になって主人に相談したところ、主人が休みの半日、息子を連れだしてくれることになりました。ワンオペ母ちゃんの至福のひと時です。ひとりになって自分だけの時間を持てることは、何より幸せなことだということを全てのパパ、そしてこれからママになる皆さん全員にお伝えしたいです。
そんな楽しみな週末を迎え、主人と子供を送り出し、家でのんびり過ごそうと思いましたが、ここ最近の体調不良がやっぱり気にかかります。スマホで症状の検索をしますが、どれもピンときません。そんな中、「だるい 妊娠初期」という検索語が目に留まり、硬直しました。そういえば月のものが来ていない、思い当たる節がある、そう思うと居ても立ってもいられず、家を飛び出し、ドラックストアに駆け込みました。急いで帰宅し検査すると「+」の文字がくっきりと浮かび上がりました。もう心のなかはぐちゃぐちゃです。2人目なんて考えもしませんでした。もともと生理不順で、生理が3年半以上止まっていた期間があっての第1子妊娠は自分も、かかりつけの婦人科の先生もとても驚いた出来事でした。子供を1人授かることさえも奇跡に近かったのに、2人目なんて信じられません。また34歳という私の年齢を考えると、このタイミングで子供が2人になってちゃんと育てていかれるのか、周りに支援は求められるのか、仕事復帰の見込みは立つのかなど、様々なことが頭の中で駆け巡りました。
立ち上がることも出来ず、家の中で悶々としていると、主人と息子が帰宅しました。どう伝えればいいか少し迷いましたが、一人でこの出来事を抱える余裕は微塵もなく、帰宅後早々に伝えました。主人もとても驚いていましたが、素直に嬉しいと言ってくれました。しかし私はこの時素直に喜べませんでした。これから先のことがとにかく不安でした。結婚式という人生最大の幸せを感じていた直後に、こんな出来事が訪れるなんて、こんな不安な気持ちに襲われるなんて。そんな複雑な思いのなか、私の第2子妊娠生活が始まりました。
「理想」考えうる最も最善なもの。
誰しも「理想」を持つ場面に出くわすと思います。些細なことで言えば、こんな服を手に入れてこんなファッションをしたい、こんな髪型にしたい、大きなものになると、結婚して子供が欲しい、家を建てたいなど、「理想」は年齢関係なく、いつだって気がつけば自分の中に居座る存在でした。
そんな「理想」を私も少なからず思い描いていました。
一人目を妊娠していたころ、お母さんになったら、子供とたくさんの時間を共有して素敵な母親になりたい、自分磨きも忘れずにきれいなお母さんでいたい、いつも家族の太陽のような存在でいたい、など少しドラマや漫画の読みすぎのような理想の母親像を勝手に作り上げては自分に酔っていました。しかしそれも出産を終え、いざ子育てがスタートすれば、その数々の「理想」は見事に崩れ去っていきました。もちろん、私の描く「素敵なお母さん」はこの世にたくさんいると思います。しかし私はそんなに器用ではないし、初めての子育てです。しかも出産後すぐに夫の転勤が決まったため、子供が2か月を過ぎてからは見ず知らずの土地での子育てになりました。
長男は一人目の子供ということもあり、壊れ物を扱うように大事にしていました。とにかく息子の体調を崩さないように外出も無理のない範囲で、食事も野菜中心で既製品はほぼ使わない、何か様子がおかしければすぐに病院に駆け込む、など今考えると異常なほど過保護に扱っていました。
そうやって子供を第一に考え、子供のために奔走すればするほど、自分をすり減らし、「理想」としていた母親像が遠ざかってゆくのがわかりました。1日中子供と向き合う日々にイライラし、産後の体型がなかなか戻らず自尊心を削られ、その想いたちをどこにもぶつけることができないまま疲れ続ける日々です。誰も悪くないのに、誰かを悪者にしないと心の整理がつかないような状態でした。こんな感じで、私の子育て生活のスタートは、決して明るいものではありませんでした。
そんな矢先に二人目の妊娠。妊娠検査薬の判定を見てからしばらくは、他のことを考えられない日が続きました。主人は結婚式直後ということもあり驚いていましたが、喜んでくれ、すぐに病院に行って両親にも報告したいようでした。しかし私は全くそんな気にはなれません。むしろ何を喜んでいるのか腹立たしいくらいでした。今まさに第一子の子育てに奮闘し、悩んで、疲れて、でもどうにか毎日を過ごしているそんな私に、更に重荷を背負わせようとしているようにしか感じられず、その時期は主人とまともに話ができませんでした。
悶々とするばかりで何も進展しないまま数日が過ぎました。しかし妊娠の判定が陽性と出れば、病院に行かないわけにはいきません。家の近くに不妊治療で有名な婦人科があったので、渋々そこを受診しました。待合室で待機している間、周りにいる人たちを見て、世の中には子供が出来なくて悩んでいる方がたくさんいるのに、自分は子供が出来てしまって悩んでいることに気づき、複雑な思いがより強くなりました。子供ができることは喜ばしいことと頭ではわかっています。しかしこの日常にもう一人子供が組み込まれるなんて、今の自分の想像の域を超えています。そんな思いを抱えながら診察をしてもらうと、やはり妊娠確定で間違いないとのことでした。
お会計を済ませ、帰路につきましたがその道中もとにかく気が重かったです。どこかで妊娠していない、と言って欲しかった自分が確かにいます。
1週間後、婦人科での2回目の診察がありました。診察後、うちでは出産を扱っていないとのことで、違う医療機関を紹介してもらいました。帰宅後、紹介された産婦人科へ連絡をすると、初診日が指定され、いよいよ産婦人科での診察が始まることになりました。出産するなんて決めてないのに、状況だけが淡々と進んでゆきます。お腹のなかのまだ赤ちゃんになり切れていない小さな卵は、毎日ものすごいスピードで大きくなろうとしていると聞いたことがあります。そう思うと、お腹に宿した命がとても健気に思えてきます。自分の力量が足りないから、とこの命を排除する理由にはならないのです。縁があって、私のお腹にやってきたこの子を守っていきたい、そんな気持ちも少なからず沸くこともありました。しかし今置かれている自分の毎日を考えると、出産するかしないか、なかなか自分の中で決断がなされないまま、出産予定の産婦人科での健診が重ねられていきました。
ある夏の暑い日、家で上の子と遊んでいたところ、通院している産婦人科から電話がありました。健診日はまだ先なのになんだろう、と電話を取ると、先日の出産前健診の検査結果について話があるので、早急に病院に来てほしいとのことでした。生暖かい汗が背中を伝って落ちていきました。これは悪い内容に違いない、直感でそう思いました。その日はもう夕方で、病院が閉まる時間も迫っていたので、次の日の午前中に予約をし、その日は電話を切りました。自分の体はいたって健康だし、第一子の出産時も何も問題なく終えることができたので、検査結果に疑義があるなんて想像もしませんでした。
不安な気持ちのまま翌日を迎えました。病院に着き、診察室に通されるとすぐに転院を勧められました。急なことで混乱をしながら詳細を聞くと、血液検査の結果、トキソプラズマ数値が異常値を示していて、今後の妊娠経過、出産は大学病院でないと対応できないとのことでした。差し出された資料には、
「トキソプラズマ」妊娠中に初めてトキソプラズマに母親が感染する結果起こります。妊娠末期ほど胎児への感染率は上がりますが、妊娠初期の感染ほど重症化しやすいとされています。胎児が感染した場合の症状としては、死産、流産、水頭症、脈絡膜炎による視力障害、脳内石灰化、精神運動機能障害などがよく知られています。例え出生時に無症状でも、その後成人となるまでの間に症状を呈する可能性があります。
その資料を見た瞬間、椅子から崩れ落ちそうになったのをよく覚えています。他にも細かい説明を受けたと思いますが、もう頭の中は真っ白でした。どうにか転院の手続きを終え、帰路につきましたが、どの道を通って帰ったのか全く覚えていません。
帰宅し、上の子を見ていてくれた主人の顔を見るや否や大泣きをしました。主人は訳が分からず、おろおろしていましたが、検査内容について呼ばれていたことを知っていたので、良いニュースではないことは察知したようです。
少し落ち着いてから、病院での説明内容を話すと、あまり動じた様子はなく、結果内容をそのまま受け止めているようでした。あまりに落ち着き払っているので、この時は不安じゃないのかと少し腹立たしく思いましたが、今思うと主人だけは落ち着いていてくれてよかったです。
その日の夜、寝る前に主人に「検査結果を聞いてそんなに悲しくなるということは、お腹の子がとても大切だからなんだよ」と言われ、やっと腑に落ちました。主人の言う通りです。私は今まさに、生きようと思いながら大きくなろうとしているこの子がとても大切で、守りたくて、でも今回の検査結果でもしかしたら出産に至らない、または出産できても元気に育ってくれるか分からない可能性があることに全力で抵抗したくて、でもどうすることも出来ずにいるのです。やっと自分はこんなに強い気持ちでお腹の子を想っていることに気がつきました。子供が2人になることに抵抗感を示し、妊娠が受け入れられず、大きく遠回りしてしまいましたが、この検査結果を受けて、やっと出産の意思が固まりました。どんな子が生まれるか誰もわかりません。でも私のお腹にやってきてくれたこの命を、可能な限り守り、1日でも長く育てていきたいと思いました。
この日から「トキソプラズマ」という言葉が頭に張り付いて離れませんでした。今までの不安に更に新たな不安がされて、改めて私の第二子妊娠生活がスタートしました。
数か月後には2人の子供の母親になる、これは紛れもない事実であり、お腹は日に日に大きくなります。未だに信じられない気持ちと、どこかでこの事実を受け止め、立ち向かっていく強い気持ちが毎日入れ替わり現れます。
「トキソプラズマ」の母子感染の可能性が発覚してからは、とにかく不安がついて回りました。お腹の子を少しでも大きく育てたい、自分の中で出産に向けた決心はつきました。しかしそれとこれとは別物です。なんでよりによって私の子供なのだろう、世の中にはたくさんの妊婦さんがいて子供を出産しているのに、私もその他大勢の一人でいいのに、なんで、なんで、という思いが毎日頭をめぐりました。自分がこれから生み出す子は、どんな子なのか全く想像がつきません。そのため、2人目の妊娠については、家族、限られた友人のみにしました。どこかでこれから出産する自分、子供について知られたくない気持ちがあったのだと思います。
長男を見ながらの妊娠生活は、とにかく大変でした。2歳を目前に、自分で歩けるようになり、とにかくたくさん歩きたい長男との毎日は、1日を終えるのがやっとでした。しかし、長男は私の体を察してか、性格なのか、常にご機嫌で過ごしてくれました。どこへ出かけるにも、家で過ごすにも、その場で楽しみを見つけるのがとても上手でした。体調が悪い中、長男を見ていても、長男の笑顔やしぐさに何度も救われました。「トキソプラズマ」感染の可能性が発覚してからは、第2子のことばかりで頭がいっぱいでしたが、考えてみると長男と2人で過ごせるのもあと数か月です。そう思うと、今この時間を大切に過ごしたいと素直に思えました。
体調がいい日は、長男が好きな電車に乗り、電車博物館へ出かけたり、近所の公園でもおやつやレジャーシートを持って、できる限り長い時間楽しめるよう心掛けました。
健診を重ねるにつれてお腹もますます大きくなり、いよいよ出産予定日が近づいてきました。「トキソプラズマ」の母子感染の可能性は、健診ごとに行うエコー検査などでは見つけることができません。実際生まれてきてみないとわからないものなので、出産前に準備できることといえば、感染していた場合の症状についての情報収集と、出産後の医療体制について主治医の先生から話を聞くことくらいでした。
もうここまでくると、逃げることはできません。出産するしかないのです。大きなおなかを見ながら毎日、母子感染していないことを願いました。
娘の出産予定日は4月8日でした。「令和」という新しい元号が決まり、外は暖かい空気に包まれています。息子と公園に出かければどこも花盛りでした。都合のいい解釈ですが、これから生まれてくる娘を全世界が祝福してくれているような気がしました。
そんな予定日を1日過ぎた日の夜中、いつもとは違う腹痛に気がつき、時間を計ってみると、陣痛の間隔でした。急いで主人を起こし、陣痛タクシーを呼んでもらいました。鈍い痛みが続きます。病院に着くと少し痛みが弱まっていくのが感じられ、嫌な予感がしました。内診をしてもらうと、子宮口は全然開いておらず、陣痛が遠のいているとのことでした。私が戸惑っていると、このまま入院してもいつ生まれるか分からないので1度帰宅するようにと指示されました。話には聞いていましたが、よくある「前駆陣痛との勘違い」でした。どっと力が抜け、タクシーで帰宅しました。帰宅するころにはお腹は張っているものの、痛みは全くありません。家で待っていてくれた主人と2人で笑ってしまいましたが、出産間近であることに間違いはないので、気を取り直して明るくなり始めた部屋で少し仮眠を取りました。
夜中のひと騒ぎのせいか、体は興奮状態のようで、睡眠不足もあまり感じずに翌日も息子と公園に出かけました。子宮口が少しでも開くように息子とたくさん歩き、ローラー滑り台も何度も一緒に滑りました。
日中活動的に動いたのがよかったのか、その日の夜中、ふたたび腹痛で目が覚めました。陣痛の間隔も短くなっています。今回の痛みは、昨日とは違って、痛みがやってくると立っていられないほどです。再び陣痛タクシーを呼んでもらい、病院に向かいました。強い腹痛を感じながらやっとタクシーを降りると、車椅子で産科病棟に運ばれました。
内診をしてもらうと、子宮口が開き始めているので、病院着に着替え、トイレを済ませるよう指示をされました。その時点でもう既に、痛みが強くなると着替えをするのはもちろん、トイレにも看護師さんに支えてもらわないと行かれないほどになっていました。
子宮口がもう少し開くまでベッドで待機することになり、横たわりながらひたすら痛みに耐えました。しかし、痛みが遠のいている時には、今まだ朝の6時前だから、ゆっくり朝食をいただいて、お昼頃出産できたらいいな、などと勝手にシナリオを立てる余裕がありました。何回か強い痛みを逃しながら時間の経過を確認していると、看護師さんがお腹の張りを確認に来てくれました。確認するや否や、モニターチェック後、素早くベッド脇に設置されていたロッカーから防護服、防護マスクを取り出し、装着しました。何が起きたのか全く分からずぽかんとしている私をよそに、周りにいる看護師さんたちもまた空気感をガラッと変え、臨戦態勢に入りました。私の不安な様子に気が付いた看護師さんが、「もうまもなく生まれますからね」とやさしく声をかけてくれました。もうまもなく、と言われ頭の中がパニックです。自分の中ではお昼ごろゆっくり出産に向かうはずだったのに、もうまもなくなんて心の準備ができていません。あまりの状況変化への驚きに涙が止まらなくなってしまいました。「大丈夫だよ、それより旦那さんに連絡を」と言われ、我に返りました。主人は、私が家を出てきたのがまだ夜中で、長男がいることもあり、家で出産の進行状況の連絡待ちをしていました。慌ててスマホを手に取るも、タイミングよくまた陣痛が強くなり、うまく文字が打てません。看護師さんに電話をかけていいか了承を得てから、どうにか主人に電話をしましたが、あまりの痛みで何を話したか全く覚えていません。主人に後々聞くと、切羽詰まった状況だと理解し、とりあえず家を飛び出したそうです。
分娩室に運ばれ、もう戻りはできない体勢になりました。私の周りを囲む看護師さんや助産師さんの数が、長男の出産時に比べて多く、さすが大学病院だなあ、と感じたことだけは覚えています。あとはもう、お腹の赤ちゃんを生み出すことで精いっぱいでした。この時はもう、子供がトキソプラズマに感染している可能性についてなど、全く思い出す余裕もありませんでした。助産師さんに強く握ってもらった手が本当に頼もしく、人の手の暖かさ、力強さを体中に感じながらいきみました。「最後の1回、思いっきり力入れて」の声とともに、もうこれ以上できないというほど力を込めると、下半身にずるんという感触と共に、赤ちゃんの声が響きました。涙と汗でぐちゃぐちゃになりながら、「元気ですか、子供は元気ですか」と大きな声で聞くと、助産師さんが手慣れた手つきで真っ赤なくしゃくしゃな顔の小さな生き物を、優しく胸の上に置いてくれました。予定日から2日遅れて4月10日、元気な女の子を出産しました。体中の痛み、そして10か月弱、とにかく「トキソプラズマ」の感染が心配でどうすることもできなかった不安感からの解放で、また涙が出ました。
駆けつけてくれた主人にも分娩室に入ってもらい、元気な赤ちゃんを見てもらいました。出産をとても喜んでくれ、改めて出産という道を選んでよかったと思えることができました。
その後、赤ちゃんの産後各種検査をしてもらいましたが、娘へのトキソプラズマ母子感染は見つかりませんでした。出産前、あんなに気にしていたのは何だったのだろうというくらい、淡々とした結果通知ではありましたが、元気に生まれてきてくれたことが何よりです。
こうして、不安でしょうがなかった妊娠生活に終止符を打ち、2人の子供の母親になりました。
第2子の出産を終え、息をつけるのは産後の入院していた期間数日だけでした。いよいよ子供が2人になり、新しい生活が始まります。長男はまだ2歳になったばかりで、妊娠中にこれから赤ちゃんが生まれる話をしても、理解できない様子でした。いきなりの赤ちゃん登場にどんなリアクションをするのか、楽しみでもあり、不安でもありました。周りのママ友に聞くと、第2子出産後の上の子の赤ちゃん返りは大変、と皆声を揃えて言います。どんな日々が待ち受けているのか、全く想像ができないままのスタートでした。
病院で退院の手続きを終え、家に帰宅すると、遠方に住んでいる両親がヘルプに駆けつけてくれ、長男と待っていてくれました。入院中も制限があり面会ができなかったため、長男とは約1週間ぶりの再会です。どんな顔をするかな、と私も少しドキドキしながら帰宅すると、長男は私を見るや否やその場に崩れ落ちました。私は生まれて初めて、人が腰砕けになる様を見た気がします。崩れ落ちた長男は、その場で大泣きを始めました。このタイミングでママが登場するなんて思いもせず驚いたのと、嬉しいのと、しばらくの期間会えなかった不安感で感情がぐちゃぐちゃになってしまったようです。いつまで泣くの?というくらい、泣き続けていました。主人に聞くと、私の入院中もママのことを恋しがる様子はほとんどなかったそうです。そのことを聞いた私は多少ほっとし、帰宅後もスムーズにいつも通り長男に接することができると思っていましたが、甘かったようです。2歳でも、本人の中では葛藤があり、ママの顔を見てその葛藤があふれ出してしまったのだと思います。普段は穏やかで、泣いても大泣きというよりは、メソメソする程度の長男なので、あんなに長時間大声で泣き続けることは後にも先にもありません。長男の強い感情を受け止めながら、泣き疲れて眠ってしまうまでずっと抱っこして声をかけ続けたことは、一生忘れないと思います。
そんな長男の大泣きから始まった、子供2人との生活は、想像を超えていました。正確に言うと、2歳と0歳との生活を想像するのが恐ろしくて、ポジティブにうまく進めている想像しかしていませんでした。そのため、想像と実生活のふり幅は非常に大きく、1日1日を終えるのが精いっぱいでした。
まず、0歳児の対応は24時間体制です。授乳、おむつ替え、吐いたら着替え、また授乳を24時間繰り返します。その中に、パワーが有り余っている2歳児との生活が組み込まれます。毎日外に出て遊びたい、ご飯も好き嫌いが出てきて食べムラがある、まだまだ絶賛おむつ生活継続中など、0歳児同様、手のかかる時期に変わりはありません。母が2,3人いないと対応できないような日々でした。
ママ友から聞いていたような赤ちゃん返りは、長男にはあまり見られませんでしたが、私が授乳している間は近づいてはいけないと思うのか、部屋の隅でその様子をじっと眺めていました。授乳のタイミングになる度にこうなってしまします。2歳といえば、まだまだ甘えたい時期です。声もかけずにずっとこちらを見る姿には、何とも言えない感情を覚えました。少しでも長男の心を埋められたらと思い、1日一回は必ず外出し、外遊びをするようにしました。長女がうまく寝てくれる時は、長女をベビーカーに置き、長男の大好きな滑り台やお砂遊びを一緒に楽しむようにしました。家で過ごす時間も、スキンシップを多く心掛け、長男の要望には出来るだけ応えるように努力しました。
このように昼間は長男と力いっぱい遊び、夜は長女の夜間授乳による細切れ睡眠の日々でした。しかし、こんな生活は長くは続けられません。ある日私は爆発してしまいました。
長女が生まれてからも、さほど自分の生活が変わることなくマイペースに過ごす主人に矛先が向きました。その日は長男が通園するプレ幼稚園の運動会がありました。事前に時間やプログラムを渡し、出発時間も伝えていました。するとマイペースな主人はいつもの休日と変わらず、自分が出発できる時間から逆算してギリギリの時間まで寝ていました。仕事で疲れているのはわかっています。でもこちらも24時間対応の生活をしています。子供が起きる前に朝ごはんの準備を始め、長女をおんぶしながら、まだ一人では着替えができない長男の着替えを手伝い、長男の朝食の補助をしながら長女に授乳させ、おむつ替えをし、なに一つ自分のことができないまま、出発時間が近づいています。そんな鬼気迫った状況で、主人がのっそりと起きてきて「出発何時だっけ?」と寝ぼけ声で言うその一言に、私の堪忍袋の緒が切れました。「ふざけるな、こっちは朝も夜もない中で、2時間以上前から準備しているんだ、もう行かなくていい」類の言葉を言い放ったと思います。寝不足もあり、この時ばかりは怒りが収まりませんでした。この場面だけではなく、普段の主人のマイペースな行動に腹立たしく思っていたものが、すべてぶちまけられました。
どうやって仲直りをしたのかはよく覚えていませんが、この日を境に主人に少し変化が見られました、
家族でお出かけをする日は、今までより少し早く起きて子供たちの着替えや食事を手伝ってくれるようになりました。週末は率先して長男を連れだしてくれます。「パパはゆっくりパパになる」という話をどこかで聞いたことがありましたが、我が家はまさにその通りでした。子供が2人になり、今まで私にお任せだった部分がそれでは回らないことに初めて気づいたのです。主人の休日の稼働率は、急上昇しました。主人自身、この変化についてどう感じているのかわかりませんが、子供が2人にならなければ、おそらく主人は育児参加をしないまま子育て期間を終えてしまったと思います。この変化が良かったのかどうかは、子供たちに手がかからなくなる頃、主人の中で答えが出るのだと思います。
私自身は、当初子供が2人も持てるなんて想像もしていませんでした。独身時代、生理が3年半近く止まっていたこともあり、排卵が不安定であることは通院していた婦人科の先生に度々言われていました。そのため、主人と結婚し、長男を妊娠した時は私も周りもただただ驚くばかりでした。年齢的なこともあり、子供は長男1人だと勝手に思い込んでいましたが、今目の前には、毎日を全力で遊び、泣きわめき、大きな声で笑う子供が2人もいます。
独身時代は食べることが大好きで、食事の内容はバランスよく、時間をかけてゆっくり味わって食べるなど人一倍気を配っていました。しかし今は、キッチンの流しの前で卵かけご飯を数分でかっ込んで終了です。
結婚前は、服装や髪型、メイクにもこだわっていました。雑誌を見るのが大好きで、ウェブマガジンをいくつも購読しては、買い物に出かけていました。しかし今は、子供の服や靴を選ぶことが優先事項になり、自分のものは買う機会が激減しました。
子供がいない人生、いる人生、どちらも選択することはできたのです。しかし私は「子供がいる人生」を選びました。正直今は目の回るような日々です。自分のことなど何一つできないまま、1日が終わっていくことも珍しくありません。子供がいなかったら、せめて1人だったらという「たられば思想」も時々頭をよぎります。不満も言い出せば切りがありません。しかし月並みですが、今はもう子供のいない生活は考えられないのです。長女の出産前に、感染症の可能性による健康への不安と向き合った経験もあり、ただただ元気で大きくなってほしい、それを願う毎日です。
現在長男は4歳、長女は2歳になりました。まだまだ手がかかり、お世話が必要な日々が続きます。子供が自分の手を離れるなんて、今はまだ想像がつきませんが、ふっと一息ついた時、2人の子供の母親になった自分が、素直に幸せだと感じられるような日々を積み重ねていけたらと思っています。