2021年11月5日
子育て
2018年初めての出産を経験しました。
出産前、陣痛への恐怖はありましたが、産まれてくる子に会えるのが楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。
地元の産婦人科で陣痛を迎えましたが、分娩台で何十回といきんでも中々赤ちゃんが出て来ませんでした。分娩台で陣痛促進剤を打ってからおよそ12時間経った頃、いよいよ緊急搬送されて国立病院で帝王切開になりました。
今思うと、出産場所が変わったことで、私の体調面によかった部分と悪かった部分両方あったように思います。
まず、悪かった面としては国立の病院となると産婦人科より、面会時間が限られます。寂しがり屋の私は病院での孤独感に耐えられませんでした。
よかった部分は、2つあります。
まず1つは、私の症状にいち早く気付き、退院後も粘り強くサポートしてくださった、一人の看護婦さんがいてくれたことです。
そして、もう1つは国立の病院だったため、精神科が併設されていたことです。
私自身、入院生活中は自分の身に何が起こっているのか全く分かりませんでした。
初めて会う我が子の可愛さと旦那さんが赤ちゃんを抱っこする姿に感動するばかりでした。
けれど、その日の夜から異変はありました。
病院では、産後数日は夜中お母さんが寝ることができるように、看護婦さん達が夜赤ちゃんを預かってお世話をしてくれます。しかし、私は出産中の痛みや光景がトラウマになって、怖くて眠れませんでした。
私にとって、出産自体が「恐怖体験」になっていました。
4人部屋にいた私は、他の人の迷惑にならないよう部屋から出て、病棟内を歩き回っていました。
異変に気付いてくれた看護婦さんが声をかけてくれると、たまらなく号泣したのを覚えています。
2日目からは、身内や友達が面会に来てくれました。
人と会って話すことが好きな私は、私たちの赤ちゃんに会いに来てくれた人たちとワイワイ楽しく過ごしているはずでした。
けれど、疲労感や憂鬱感、心臓のドキドキがあったため、途中で面会場所を抜けて部屋に戻っていました。
2、3日は出産のトラウマが怖かったのですが、恐怖対象がすぐに変わりました。
それは「水」への恐怖です。
元々、大学時代にも「水」への恐怖心で同じような症状を経験していましたが、その時は病院にも行かず、時間が解決してくれました。
大きなストレスを抱える時期を超えると自然と症状はなくなったのです。
最初、両親や彼氏(今の旦那さん)に話しても中々理解してもらえませんでした。
それもそのはずで「水」が怖くて頭から離れないなんて、健康な人であればよく分からない感覚だと思います。
しかし、いつもと様子が違う私を見て、徐々に本人にとっては深刻なことなんだということを分かってくれました。
この大学時代の経験もあって、両親と旦那さんはすぐに私の異変を理解してくれ、なるべく面会に来るようにしてくれていました。
しかし周りの優しさに関係なく、入院生活中盤は、頭の中から「水」のことが離れてくれませんでした。
漠然とした不安や水に溺れるイメージや息ができなくなるイメージが1日ずっとありました。
目の前に愛しい赤ちゃんがいるのに、育児に全然集中できませんでした。
初日の夜に泣いていたことを他の看護婦さんから聞いていたのだと思いますが、様子がおかしいことを察したある一人の看護婦さんがいました。佐藤(仮)さんと呼びます。
国立の病院では、その日の担当看護婦さんがコロコロと変わりますが、私個人の担当は佐藤さんでした。
佐藤さんには、今の状況をすべて話しました。
佐藤さんは「ホルモンバランスの乱れや出産の疲労も重なっているんだと思います。もし抵抗がないのであれば、病院内併設の精神科で話を聞いてもらうだけでもどうですか?」と提案してくれました。
けれど、「私は調子が悪いのは病院生活で孤独な今だけで、退院すれば大丈夫だと思います。」と話しました。
というのも精神科にはまだ抵抗感があったため、様子を見ることにしました。
どんどん症状は変わります。
次は、常に「たんが絡む」ことが気になり始めました。
病院内はクーラーが効いて少し寒かったこともあり、最初は風邪をひいたのかなと思っていました。
そのため、看護婦さんに言って「風邪薬」を処方してもらいました。
いつもいつも「たん」を洗面台に吐き出しますが、一向に違和感が取れることはなく、そればかりが気になります。
赤ちゃんへのかわいいという感情の隣には、常に「たんが絡んで気持ち悪い」「気持ち悪い感覚がずっと取れない」という不安感でいっぱいでした。
後から分かったことですが、私の症状は一貫して「気になって怖い」でした。
怖くて気になる対象が「出産」→「水」→「たんが絡む」に変わっていただけで、症状としては同じだったんです。
ついに面会もまともにできなくなっていました。
親友が会いに来てくれた時です。
常に「気にして」いたり、不安感と恐怖感があったりすると、とても疲れます。
常に何か不安なことがすぐそこにあって、気を張り詰めているような感覚なので、疲れてしまって起き上がることができませんでした。
親友が来てくれても、ベットに横になったまま、会話を少しする程度でした。
私の親友はとても優しい子で、出産祝いとして、私にプレゼントを持ってきてくれました。
ほとんどの人は、赤ちゃんが使えるものを出産祝いとして持って来てくれますが、その子は出産を頑張った私にプレゼントをくれました。
その気持ちがとても嬉しかったのを覚えています。
しかも、わざわざ遠くから来てくれたにも関わらず、無言でずっと頭をよしよしとさすってくれていました。
入院生活で数少ない、リラックスした瞬間でした。
最後の2日程度は「気になる」時間もありましたが、常に漠然とした不安感を抱えていました。
自分でも何が不安なのか分からないけれど、鬱っぽさを感じていました。
今思えば、この時にすぐ精神科を受診していれば何か違ったかもしれません。
出産にはかなりのエネルギーを使うので、おそらく私のエネルギーが自分では回復できない程枯渇していたんだと思います。
その結果、心にも影響が出ていました。
10日間の入院生活を経て退院する日、旦那さんと義理のお母さんが迎えに来てくれました。
赤ちゃんにとって初めての外の世界です。
そして、私たち家族の新しい門出です。
とても、ワクワクする日だと思いますが、私は車の中で、不安感とともにただひたすら車の外を眺めるばかりでした。
そして、退院後は「気になる」違和感がなくなることを願うばかりでした。
ベビーシッター派遣のハニークローバーは、お母様の育児のサポートを最善を尽くしてさせていただきます。育児でお悩みの際はお気軽にご相談下さい。
退院して以降、実は1ヶ月程あまり記憶がありません。
実家で両親に助けてもらいながら生活していましたが、かろうじてできていたのは、赤ちゃんのお世話だけです。
掃除洗濯、ご飯の準備などすべて母親がしてくれていました。
しかし、赤ちゃんのお世話も私の母の全面協力あってこそでした。
夜中授乳に起きるときも、母は一緒に起きてくれていました。
基本は母乳育児でしたが、夜中はミルクを飲ませることもあったため、ミルクの準備など
を一緒にしてくれていました。
母乳育児も私にとっては辛かったのを覚えています。
赤ちゃんが乳首に吸い付く感覚がとても苦痛だったのです。
私にとって授乳は我慢の時間で、泣きながら授乳をすることもありました。
けれど、赤ちゃんはとても可愛く母乳をあげたいという思いはあったので、頑張って耐えていました。
その間も、「たんが絡む」ことが気になって気になって、その感覚が取れない不安感と恐怖心が続いていました。
おそらく、入院生活時よりも悪化していたと思います。
両親や旦那さんにその時のことを聞くと、常にぼーっとしていて、死んだ魚のような目をしていたと今でも言われます。
おそらく、自分の中で「気になる対象」と戦うことに精一杯で、外に意識を向けられなかったんだと思います。
そのため、会話もまともにできませんでした。
「ごはん何が食べたい?」と聞かれても、思考が回らないため「うん」と返事をするだけ、といったことが多々ありました。
一番症状を悪化させていたのは、ご飯を食べられないことだったかもしれません。
妊娠中、10キロ増量した私は、産後たった1ヶ月で元の体重に戻っていました。
食事はまともに食べられない、けれども授乳をして栄養は赤ちゃんに与えている状況が続いたため、10キロも体重が落ちるのは仕方ありませんでした。
「たんが絡む」ことに続いて、「口の中の違和感」が気になって常に口の中に意識が向いていました。
口の中に食べ物を入れると、その違和感が強くなっていたため、食事があまりできなくなっていました。
もちろん、食欲自体もほとんどありませんでした。
お腹はぐーっとなってお腹が空いているのだけど、全く食べたいと思わなかったです。
赤ちゃんの泣き声も私にとっては不安感を煽る対象でした。
調子が悪い中でも波はあって、まだ少し赤ちゃんに優しく笑いかけられる時と、全く何もできない時がありました。
全く何もできないくらい調子が悪い時は、赤ちゃんの泣き声を聞くと、おかしくなりそうな感覚に襲われていました。
パニックの予防として、防音してくれるヘッドフォンをつけたり、赤ちゃんを母に任せて他の部屋に逃げ込んだりしていました。
周りの助けなしで育児をすることは、不可能だったと思います。
産前は漫画やアニメがとても好きで、読みだしたら他の人の声が聞こえないくらい、集中してしまう私でしたが、この時の私は漫画さえも読むことができませんでした。
「口の中の違和感」や不安感の方が気になって、全く漫画の内容に集中できなかったのです。今まで好きだった物に全く心ときめかないことが、また苦痛でした。
よく「私はどこに行ったの?」「私がどこにもいないよ」と言っていたのを覚えています。
好きなものが好きじゃない、会話もまともにできない、ご飯も食べられない、赤ちゃんのお世話もまともにできない、以前の私はどこにもいませんでした。
「早く楽にして」と考えていたため、自殺願望もあったかもしれません。
ただ、周りの人の支えを実感していたため、私がいなくなることで、大切な人たちの悲しむ顔を想像すると、いつも踏みとどまることができました。
本当に私の両親、旦那さん、赤ちゃんには感謝するばかりです。
旦那さんは、とても忙しい日々を送っていました。
この時、元々忙しい仕事と平行して、引っ越し準備を進めてくれていました。
新築が完成間際だったため、水道、電気、家具家電の手配、インターネットなど手続きは山のようにありますが、すべて旦那さんがこなしてくれていました。
ただでさえ忙しいのに、私のことが心配でメンタル的にもきつかったと思います。
私達2人で暮らしていた家と両家の家は近かったため、平日の夜や土日は私と赤ちゃんに会いにきてくれました。
私も調子が悪いながらも旦那さんのことを心配していましたが、自分のことで精一杯だったため、実家に来てくれた時も全く気を配ることができていなかったと思います。
私は両親と旦那さんに支えてもらっているけれど、旦那さんは今一人で頑張っていると感じていた私は、母に頼んで、旦那さんの実家に連れて行ってもらいました。
旦那さんのご両親とは、仲も良く、本当の娘のように扱ってくれていました。
お義母さんには、私の今の状況と旦那さんの状況をお伝えした上で、旦那さんのサポートをお願いしました。
おそらく旦那さんはどんなに忙しくても、自分が追い詰められても、自分の両親には中々助け舟を出さないことを知っていたからです。
お義母さんは泣きながら、「辛いね」「早く良くなるといいね」「息子のことは気にしなくていいからね」と話してくれたのを覚えています。
一時期、旦那さんと会うことで調子を崩していたこともありました。
その理由が、顔の表情です。
おそらく、心配だけどどうもしてあげることができないもどかしさや、生活の忙しさなどが顔に出ていただけだと思います。
けれど、その時の私には旦那さんの優れない表情が私に向けられたものだと思い、気を遣うことで調子を崩していました。
一度、そのことで旦那さんに話すと、その表情の理由を聞かせてくれたため、その後からは旦那さんがトリガーで調子を崩すことは減りました。
このことからも分かるように、本当にちょっとしたストレスがかかるだけで、私は崩れてしまっていたのです。
そんな中、退院した後も週に1.2回、出産した病院の担当看護婦だった佐藤さんが電話をしてくれていました。
今の様子を話した上で、私は「早く良くなりたい」と思うあまり「先週よりも少し良くなってるかもしれません」と話していたのを覚えています。
しかし、決してそんなことはありませんでした。
私自身が自分の状態を把握しきれていなかっただけで、周りの人たちは反対に悪くなっているか、状況は変わっていないことを理解していました。
佐藤さんはいつも、「一度精神科の先生に話を聞いてもらうだけでもどうですか?」と提案してくれていました。
しかし、この時の私は自分が病気であることを認めることができませんでした。
自分は病気なのではなく、ただ産後のホルモンバランスの乱れによるもので、時間が経てば良くなると信じたかったのです。
産後1ヶ月、ただひたすら自分の「気になって怖い」症状に耐える地獄の日々を過ごしていました。
ベビーシッター派遣のハニークローバーは、北海道から沖縄まであらゆる地域でお伺いをさせていただいております。ぜひお気軽に育児のパートナーとしてご利用ください。
産後1ヶ月、ひたすら「口の中の違和感」が気になり続け、かわいい赤ちゃんの育児もまともにできない日々が続きました。
目の前に可愛くて仕方のない赤ちゃんがいるのに、赤ちゃんに集中できない、まともにお世話ができない状況にもどかしさを感じていました。
1ヶ月経った時点で、私の我慢も限界でした。
全く治る気配がなかったからです。
産後、徐々に回復するだろうと信じていた症状は一向に良くなりませんでした。
いつ治るのか「光」が見えない中、暗闇を進むのはかなりの気力が必要です。
私にはもうその気力が残されていませんでした。
まだ精神科に行く勇気はなかった私は、両親と話して、一度小さい頃からお世話になっているかかりつけの内科を受診しました。
いくつかの質問が書かれた用紙にチェックを入れた結果、先生からは「産後うつ」だろうと言われました。
しかし、私は納得いきませんでした。
なぜなら、私の症状は「産後うつ」の症状とは少し違ったものだったからです。
確かに「産後うつ」の症状である、極度の不安感やパニック発作、気分の変動など当てはまる部分は多かったですが、ネットのどこにも「気になる」という症状は書いていませんでした。
私は確かに「産後うつ」かもしれないと思いつつも、それだけでは済まない症状を抱えているのを感じていました。
病院内で泣きじゃくる私を見て、先生は「頑張って!」「赤ちゃんの母親はあなただけだよ」「神様は乗り越えられる人にしか、試練は与えない」と言葉を掛けました。
その時の私にとっては、とても辛い言葉でした。
私はもう十分に頑張ってる、これ以上は無理だ、こんな試練いらない。
先生のこの言葉は、毎日極限まで心をすり減らしてる私には、大きな金槌で叩かれているような感覚でした。
内科の先生にも精神科の受診をおすすめされました。
どうにか回復の糸口を見つけなくてはということで、苦渋の決断でしたが、いよいよ精神科に行くことになりました。
定期的に電話をかけてくれていた看護婦の「佐藤さん」に精神科を受診したいという話を伝えたら、快く手はずを整えてくれました。
当日、佐藤さんも付き添ってくれるということを聞いて、安心したのを覚えています。
初めは、この産後の不調を治す手がかりを精神科の先生に聞きに行くだけという気持ちで向かいました。
初めての精神科は、受診すること自体が怖かったため、私の両親と旦那さんに付いてきてもらいました。
みんなで話を聞いて、今後のことを話し合うためでもあります。
先生はとてもおだやかな男の先生で、私の話を「そっかー、きつかったね」「頑張ったね」と聞いてくれました。
先生は、私の症状を聞いた上で、おそらく「強迫性障害」の症状ではないかと話してくれました。
「強迫性障害」とは、強い不安や恐怖に心を囚われて、日常生活に支障をきたす精神病です。
有名な症状としては、家の鍵をかけたかどうか気になって何度も確認をしてしまう、手の汚れがとれたかどうかが不安で、何度も手を洗ってしまうなどの症状が挙げられます。
私は強迫性障害という単語は聞いたことはあるものの、どんな病気なのかは知りませんでした。
先生に説明をしてもらった上で、納得しました。
確かに私の症状は、それに当てはまります。
「産後のトラウマ」「水への恐怖」「たんが絡む」「口の違和感」に思考が囚われて、不安感に襲われ、日常生活をまともに送ることができない。
しかし、まさか自分が産後うつ以上に、精神病を患っていたなんて信じられませんでした。
確かに、出産がトリガーではあるけれど、診断名を付けるなら「産後うつ」ではなく、「強迫性障害」だろうということでした。
2つの薬の服用を勧められました。
1つ目は、抗不安薬「ワイパックス」です。
一時的に不安感を解消してくれる薬で、少し飲酒をしたときのような「ぼーっ」とした感覚になる薬です。
2つ目は、抗うつ薬「レクサプロ」という薬でした。
ワイパックスは、一時的な効果ですが、レクサプロは、長期的に服用し薬を体に滞留させるというような薬です。
ワイパックスには、慣れが生じます。
ずっと服用をしていると、今までの薬の容量では効かなくなり、薬の容量を増やさなくてはいけなくなります。
そのため、ワイパックスは不安感が強い時など一時的な使用に制限して、慣れのないレクサプロを最低でも1年間服用するということでした。
ただし、レクサプロは効き目が出るまでに2週間から1ヶ月かかり、服用し始めたら1年は必ず続けてくださいと言われました。
ショックで、さらに涙が溢れました。
理由は3つあります。
①ワイパックスは依存性が出る可能性がある
②レクサプロは一年も飲み続けなければいけない
③薬を飲むなら、母乳はあげられない
特に、③は私にとってとても辛いことでした。
母乳をあげることが苦しくはあったものの、私が唯一赤ちゃんに与えられるものだったからです。
一般知識として、ミルクよりも母乳育児の方が日本では推奨されていますし、実際赤ちゃんにとって一番の栄養で、お母さんとのスキンシップの時間です。
それを、私のせいでしてあげられなくなることがとてつもなく、悲しくて「嫌」でした。
しかし、薬の成分が母乳を通して、微量ながらも赤ちゃんに渡ってしまうため、薬を飲むなら母乳をストップするしかありません。
一旦持ち帰って家族で話すことになりました。
帰って話し合うと、私の両親も旦那さんも各々、薬への抵抗感があり数日は全員考える時間を作りました。
それぞれ、薬のことを調べて、この状況を打破するにはどうしたらいいかを考えてくれていました。
私も調子が悪いながらにたくさん考えました。
そして、母乳をやめなくてはいけない辛さはあるものの、ミルクでも立派に大きくなっている子供はたくさんいるし、なによりも大事なのは、赤ちゃんとの関わり方ではないかと考えるようになりました。
もちろん母乳も大事だけれど、私は今赤ちゃんの前で笑えていない。
赤ちゃんは、それを感じているはずです。
赤ちゃんにとって大切なのは、お母さんの愛情で、たくさん抱っこをして、たくさん笑いかけることだと考えました。
当時の私は、何が一番大事かを考えた結果、家族に「薬を飲み始めたい」と伝えました。
話し合いの結果、家族も同意してくれたため、産後1ヶ月の地獄のような毎日を経て、やっと薬の服用への乗り切りました。
ワイパックスに対しては慣れが生じることから、少し麻薬的なイメージを持っていたため、まだ飲む意思はありませんでしたが、レクサプロは服用する決心をしました。
薬の服用に至るまで、産後2ヶ月はかかりました。
これが、遅かったのか早かったのかは分かりませんが、やっと2週に1回は精神科への受診することとなりました。
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「強迫性障害」と診断された私は、抗うつ薬レクサプロを服用することになりました。
けれど、レクサプロは即効性のある薬ではありません。
効果が実感できるまでに、およそ2週間から1ヶ月かかると先生に言われました。
いざ、薬を飲むことを決心して少し光が見えた私には、ショックでした。
不安感と恐怖心に溢れた1日はとても長く我慢の限界で、1日でも早く治してほしいと思っていたからです。
さらに、精神病の薬は難しく、その人に合う合わないがあります。
レクサプロが私に合うかどうかは2週間から1ヶ月飲んでみないと分かりません。
私は絶望しました。
治るかどうか先の見えない毎日を最低でも1ヶ月、そして薬が合わなければそれ以上耐え続けなければなりませんでした。
無理だと思いました。
私の精神は限界で、その話を精神科で聞いたときまたしても泣き崩れていました。
そんな私の状態を見て、先生は入院を勧めました。
それ程私の症状は悪かったのです。
けれど、断りました。
毎日、外を散歩してみたり、出掛けてみたり、両親や旦那さんに気を紛らわしてもらったりして、なんとか毎日をやり過ごしていたので、支えとなる人たちが周りにいない入院生活は、私にとって逆効果になると思ったからです。
またひたすら限界ギリギリの生活です。
色々と工夫をしました。
今まで夜は私が必ず起きて、赤ちゃんに授乳していましたが、夜寝れていないことも、私の症状を悪化させているのではと考え、母は「夜のミルクを変わるから寝なさい」と言ってくれました。
周りの支えが本当に助けになりました。
今でも感謝しています。
けれど、夜通して眠ることはできませんでした。
抑うつ状態だったと思います。
不安感で心臓の鼓動が止まらず、眠気がきませんでした。
ただ一人部屋の中で、自分の症状と戦いながら夜を過ごすのは、とても辛かったです。
ましてや、母が頑張ってくれているのに、まともに寝ることもできないのは、申し訳なくて仕方ありませんでした。
そんな中、ちょっとしたストレスでパニックになった私は、念の為にもらっていた抗不安薬ワイパックスを初めて飲みました。
30分ほどで、薬の効果が現れました。
およそ2ヶ月ぶりに、全く不安感がなく、心臓のドキドキもない時間を過ごすことができました。
どんなに安らかで、どんなに嬉しかったことか。
まだ「水への恐怖」が残っていた私は、2ヶ月あまりお風呂に浸かることが怖くて、シャワーだけでお風呂を済ませていました。
けれど、薬のおかげで恐怖心が消えた私は久しぶりに湯船に浸かりました。
とても幸せでした。
私のそんな様子を見て家族は、辛いときは薬の力に頼ろうと言ってくれました。
私の父は必ず、手を握って「大丈夫だよ」「必ず治るからね」「周りには結構産後不調になった人がいるけど、みんなちゃんと治ってるから」と希望の言葉を掛けてくれていました。
その言葉のおかげでなんとか毎日を乗り越えられたかもしれません。
激しい不安感を抑えるために、自分にとってストレスになるものや「気になる対象」を想起させるものは、なるべく遠ざけていました。
けれど、唯一遠ざけられず我慢していたことがあります。
それが母の飲酒です。
母はお酒を飲むと、性格が変わります。
いつもより気が大きくなってよく喋り、いつも言わないことまでも言うようになります。
なにより嫌だったのは、旦那さんが実家に来たときに赤ちゃんのことを「これ」呼ばわりしていたことです。
そして、旦那さんは平日仕事で赤ちゃんに会えないにもかかわらず、私の方が赤ちゃんのことよく分かってますといったような口ぶりで旦那さんに話すのです。
本来、産後一ヶ月で夫婦の家に戻り生活をしているはずでした。
けれど、家に帰って一人で何もできない状況の中、旦那さんもかわいい赤ちゃんに会いたいのを我慢しているにも関わらず、そんなことを旦那さんの前で母が言葉を投げることが耐えられませんでした。
けれど、母がお酒を飲むのは、ストレスの発散です。
私の支え、赤ちゃんのお世話、家事、料理など。
とても頑張ってくれていました。
大切な娘が毎日泣いていたり、抜け殻のような姿でぼーっとしていたりするのですから、母にとっても辛かったはずです。
私が少しでも食べられるように、たくさん考えてご飯を作ってくれていましたが、私は毎回ほとんど残していました。
そんな状態だから、元々メンタルの強くない母もストレスでお酒が増えていることは分かっていました。
だからこそ、一時期はお酒を飲んだ母がきっかけで調子を崩しても何も言わずに我慢していましたが、母のお酒はエスカレートしていきました。
そして、私も我慢の限界がきました。
旦那さんも含めみんなでご飯を食べているときに、「お酒その辺にしたら?」と言ってしまったんです。
私はその時、調子が悪くとても嫌な顔をしていたと思います。
母も、おそらく限界だったんだと思います。
母は「そんなに嫌なら、どっか行ったら?」
と強く言葉を言い放ちました。
私はそれで余計にパニックを起こして、また薬を飲んで落ち着きました。
その時のことを母はそのことを根にもったんでしょう。
次の日から、2階に閉じこもって出てこなくなりました。
私はその状況に責任を感じていました。
私のせいで、必死に支えてくれていた母を傷つけたと。
次の日、私はお昼ご飯を家で食べた後、気分転換に仕事が休みだった父と赤ちゃんと出掛けていました。
そのときの片付けなどは父がしてくれました。
今まで、毎日夜ご飯を作ってくれていた母ですが、ケンカをした夜からご飯を作らなくなったため、母に電話をして父が夜ご飯買って帰ると伝えました。
そのときに、母は「どうせあの子は片付けもしてないんでしょ?」とお昼ご飯のことを父に言ったようです。
父は、それに腹を立て「なに子供ぽいことを言っているんだ」と母に言いました。
父は、私が片付けや掃除など、したくてもできない状況であることを分かってくれていたからです。
すると、母は電話を切り、携帯の電源を切ってしまいました。
母は父が自分の味方をしてくれず、私の味方をしたことがショックだったのだと思います。
家に帰ると、母は2階で部屋を暗くしてお酒を飲んでいました。
母も限界だったのです。
私は、泣き崩れるように謝りました。
母は私には、優しい人です。
けれど、父には厳しく、今度は父に怒りの矛先を向けました。
私は、それがとても嫌でした。
父は、調子の悪い私のフォローをしてくれただけで、父は悪くありません。
私の泣きじゃくる姿を見て、母もなんとか一階に降りてきてくれました。
けれど、その時の喧嘩のことは3年経った今でもお互いにしこりが残っています。
私は、喧嘩の中で母に言われた言葉が頭から離れません。
「あんたがワンワン泣くから、私がお酒を飲むんでしょ!」
きっと、母も私に言われた言葉が心に残っているんだと思います。
精神病を患うとは、本人だけでなく、周りもとてもとても辛いことなのです。
今の私は、その時にできた母との溝を少しずつ埋めようとしています。
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薬を飲み始めてから、1日1日がとても長く感じました。
早く、早く、薬が効いてほしい。
けれど、すぐには効きませんでした。
精神科の先生には最低でも2週間はかかると言われていたので、ただひたすら薬が効くまでの毎日を耐えました。
薬には副作用もあり、飲み始めて1週間は少し吐き気やめまいがありました。
ただ、私からしてみれば、気になるものへの「不安感」「恐怖心」の方がよっぽど辛かったため、副作用はそれほどきつく感じませんでした。
抗うつ薬レクサプロが効くまでは、抗不安薬のワイパックスを飲んで凌ぎました。
ワイパックスの効果自体は数時間ですが、一度落ち着きを取り戻すと、薬の効果が切れた後も調子良く過ごせていました。
けれど、ワイパックスは「慣れ」が生じる薬なので、我慢できる日はできるだけ飲まないようにしていました。
今となっては、辛いときはもう少し薬に頼ってもよかったなと思っています。
薬の力であったとしても「平穏な心」で過ごす時間は必要でした。
健康な人は仕事できついことがあっても、友人と喧嘩をしても、一度「心を落ち着かせて」冷静に考える時間があるだけでだいぶストレスは軽減されます。
けれど、私は産後2ヶ月ほとんどその時間がありませんでした。
常に「口の中の違和感」が頭から離れず、「不安感」と「恐怖心」がなくなるひとときはありませんでした。
だからこそ、薬の力に頼ってでも「リフレッシュ」する時間は必要だったのではないかと今では思います。
赤ちゃんは、産後2ヶ月半で首が座り始めました。
どんなに辛い状況でも赤ちゃんは私にとっての癒しでした。
調子が悪くても、我が子はかわいいものです。
確かに赤ちゃんの泣き声で調子を崩すことはありましたが、反対に赤ちゃんをあやすことに夢中になって、症状が落ち着くこともありました。
産後2ヶ月以降はどちらかというと後者の方が多くなっていたように思います。
というのも、ついに薬の効果が現れ始めたのです。
抗うつ薬レクサプロを飲み始めて2週間、少しだけ不安感を感じない時間ができ始めました。
母がいないと赤ちゃんのお世話もまともにできなかった状況から、少しの時間であれば一人で赤ちゃんのお世話をすることができるようになりました。
効果が実感できたことで、「希望」が見えました。
人間にとって「希望」がどれほど大切なものなのか、この時の私は誰よりも実感したと思います。
いつ治るのか分からない、ずっとこのまま「強迫性障害」を患ったままなのでは?
と暗闇の中を彷徨い続けていた毎日は本当に地獄でした。
毎日泣いて「早く楽になりたい」「誰か助けて」「本当の私はどこに行ったの?」と叫んでいました。
まだまだ症状は残っているものの、ほんの少しでも効果を実感したことで、「あ、私治るかもしれない」と「希望」が見えたのです。
私の病気は「心の病気」です。
心の持ちようで、症状は重くも軽くもなります。
希望を持てたことで、どんどんと症状が回復していきました。
笑えるようになりました。
話すことができるようになりました。
ご飯も少しですが、食べられるようになってきました。
そして、何より嬉しかった瞬間があります。
旦那さんと赤ちゃん3人で過ごしていたときです。
久しぶりに、好きなアニメを見てみました。
多くの人が、テレビを気晴らしに見ると思います。
嫌なことがあっても、好きなテレビを見ている間だけは忘れることができたという経験はしたことがあるはずです。
けれど、産後2ヶ月は、それさえもできずに苦しい思いをしてきました。
テレビを見ても自分の症状のせいで、全く集中できず楽しくありませんでした。
けれどあの日、アニメに集中している間「不安感」がなくなったんです。
嬉しくて泣きました。
旦那さんに話したら、一緒に喜んでくれました。
テレビでの気晴らしがてきるようになりました。
「口の違和感」はあるものの調子が良い時間は娘と2人で出掛けることができるようになりました。
それでも、1日の中で調子がいいとき、悪いときの波はあります。
「不安感」や「恐怖心」は時折はやってきました。
散歩をしたり、娘と出掛けて気を紛らわしたり自分で考え行動しました。
おそらく、自分で考え動くことがよかったのだと思います。
自分で行動しだしてからは、さらに調子のいい時間が増えました。
そして、産後3ヶ月が過ぎたころです。
ついに、全く「不安感」や「恐怖心」で息が苦しくなったり心臓が激しく鼓動したりしない日を過ごすことができました。
本当に、本当に嬉しかったのを覚えています。
世界が明るく見えました。
娘をただ抱っこしている何気ない時間が幸せでした。
旦那さんも両親も喜んでくれました。
そして、産後3ヶ月を過ぎてやっと、実家を出て夫婦で暮らしていた家に戻ることができました。
間もなく新築に引っ越してからは、徐々に「口の中の違和感」も消えていきました。
掃除、洗濯、料理、育児それらをできる範囲でこなしている内に、症状について忘れることができる時間が長くなってきました。
症状がだいぶ落ち着いてきたといっても、それは薬の効果によるものです。
私には、抗うつ薬レクサプロが合っていました。
すぐにやめてしまえば、また症状が蒸し返してしまうかもしれません。
先生と話して、最低でも1年は続けようということになりました。
精神科の定期受診も1ヶ月に1度だったのが、2ヶ月に1度、3ヶ月に1度になりました。
初めは、必ず母に片道50分ほどかかる病院まで連れて行ってもらっていましたが、母と喧嘩した後からは、薬の効果が効いていたのもあって、娘と2人で受診することもできるようになっていました。
結局、薬の服用は1年間でした。
時折ストレスが加わるとパニックを起こしてはいましたが、その時は旦那さんに電話をして仕事から帰ってきてもらっていました。
だいたいは疲れが出てくる夕方以降がパニックになりやすい時間だったので、旦那さんもすぐに帰ってきてくれていました。
パニックになったときは、抗不安薬のワイパックスを飲むかどうかの判断もままならなかったので、旦那さんに電話をして飲むよう促してもらっていました。
1年でレクサプロを辞めましたが、2年半ほどは突発的な発作にはワイパックスで対応しました。
娘も3歳です。
あの時のように泣き叫んでパニックになることは、ほとんどありません。
長らくワイパックスも飲んでいません。
長い時間をかけて、完治したと言っても問題ないと思います。
元々していた仕事はやめました。
今はまだ、仕事のストレスに耐える力はないと思います。
けれど、この経験をしたからこそ得たものもたくさんあります。
大切な家族、支えてくれた人たちへの感謝、人と人とのつながりの大切さ。
そして、自分の人生について考え直すきっかけにもなりました。
人はいつ病気になるか分かりません。
いつ死ぬか分かりません。
だからこそ、私が本当にしたいことは何なのか。
どうやって生きていきたいのか。
旦那さんと共有しつつ、本気でこの3年間考えてきました。
今は家族の夢があります。
その夢に向かって頑張っている最中です。
私たち人間には、「希望」という光が必要です。
光のない暗闇の中は絶望です。
けれど、辛い暗闇の中でも少しの光があればなんとか乗り越えることができます。
もし、この記事を読んでいるあなたが心の病を患っているならば、「希望」はあると信じてほしいです。
決してそうは思えませんよね。
私がそうでしたから。
でも、敢えて言わせてください。
「大丈夫、絶対治ります。」
周りの人からのその言葉が励みになります。
「大丈夫、絶対治ります!」