新生児の子育てinシンガポール

2021年12月2日

海外子育て

シンガポールでの出産~退院まで

アジアの小国シンガポールでの出産

2010年4月14日、シンガポールにて私は娘を出産しました。

私たち夫婦は2人とも日本人ですが、結婚間際に夫がシンガポールへ転勤となり2009年シンガポールに移り住んでいました。

娘の戸籍の出生地は「シンガポール国」と記載されています。

よく聞かれるのですが、海外で出産しただけでは国籍は選べません。日本人の両親から生まれた子供は「日本国籍」となります。

娘の場合、生後2日目にはパスポート用の写真をとるために病院に写真屋さんがやってきて、ほとんど生えていない髪をペタッととかして写真をとってくれました。その時撮影された写真で、パスポートとシンガポール在住のためのVISAを作成するのです。

シンガポールでは、ほとんどの人が無痛分娩を選びます。私も硬膜外麻酔という麻酔を使い無痛分娩で娘を出産しました。

中には、薬を使いたくないという理由で麻酔を使わない人もいますが、大事なことは、出産する人がどのように産みたいかを「選択できる」ことだと思います。

日本では、まだまだ麻酔を使う人は少ないですが、友だちの旦那さん(ポーランド人)曰く、「麻酔を使わない出産なんて、麻酔をしないで手術するようなものじゃないの?!」とびっくりしていました。日本は無痛分娩が浸透していない、世界でも有数の国なのです。

麻酔を使って母体に負担をかけないため、体の回復は非常に速いです。そのため、
シンガポールでは出産による入院は、基本的に2泊3日となります。

海外でもある!母乳神話

初めての子供でどうしたら良いかわからないことだらけだった私は、予定日の少し前から母親学級や母乳指導などに積極的に参加していました。

赤ちゃんのお風呂の入れ方、おむつの替え方、ゲップをさせる方法等々、日本と同じように裸のお人形を使い丁寧に教えてもらいました。

一つ面白かったのは、日本では肌色の赤ちゃん人形ばかりを使うのだろうと思いますが、シンガポールでは黒人の人形や目の青い人形など、お人形の人種も様々でした。

初めての赤ちゃんを迎える喜びに満ちた夫婦が数組集まって、お人形を相手におむつ交換や着せ替え人形に四苦八苦する光景は面白くもあり、とても幸せな空間でした。

そして、何が一番良かったかって、同じ時期に出産を控えた人と知り合いになれたことが、後々非常に助かりました。この母親学級で知り合った一人は、友だちというか、辛かったあの時期を一緒に乗り越えた「戦友」です。

さてさて、母乳指導の話をします。私が出産した病院では、母乳指導が徹底されていました。赤ちゃんにとって母乳育児がどれだけ良いかということを徹底的に教え込まれ、「絶対に粉ミルクをあげてはならぬ!」という方針でした。

私の先生は、いつも陽気なシンガポール人のヘレン先生という中年の先生でした。この先生が産後の私を非常に悩ませる存在となるのですが、この時は希望に満ち溢れ、ヘレン先生の言うことに目を輝かせ夢中で聞いていました。

母乳をあげるときの赤ちゃんの抱き方や、おっぱいが張った時の対処方法、そして、母乳が赤ちゃんにとってどれだけ栄養価があるかという指導をしてもらいました。

硬膜外麻酔による無痛分娩<入院は2泊3日が基本>

お腹の中で赤ちゃんは着々と大きくなり、いつ産まれてもおかしくない状態なのに一向に出産の兆候が見られず、これ以上待てないということになったため、とうとう計画的に陣痛促進剤を使った分娩をすることが決まりました。

入院セットが入ったバッグを持ち、夫と2人で朝早く病院に向かいました。

麻酔を注入すると下半身の感覚がなくなるため、下剤を使って排便を済ませ分娩用のベッドに横になります。そして、いよいよ硬膜外麻酔を注入。感覚がなくなったら陣痛促進剤の点滴が始まります。

この頃から、中国人とインド人のナースが入れ替わり立ち替わり私の部屋を行ったり来たりして陣痛の様子を確認していました。

「スリー、ツー、ワン、プーッシュ!!」の掛け声とともに何度腹筋しても出てこない娘。
「あんたへたくそやなぁ。あんたの赤ちゃん完全に寝とるやん」と言われ、何度もお腹を揺さぶって赤ちゃんを起こすナース。
「赤ちゃん! 起きてや~!!」「はい、もう一回やりなおし!」と繰り返すこと約2時間。

非常に緩い雰囲気の中、やっと赤ちゃんが出てきました。

赤ちゃんが出てきてすぐに、主治医のドクターはへその緒から臍帯血を取ります。そして縫合。この時はまだ麻酔が効いているので全く痛くありません。

タオルでぐるぐる巻きにされた赤ちゃんを少し抱っこさせてもらって、初乳を飲ませ、赤ちゃんは新生児室へ移動して綺麗にしてもらいます。

私はストレッチャーに乗ったまま自分の病室へ運ばれます。

ひと運動終えたような爽快な気分だった私は、ストレッチャーに乗ったままフローズンマンゴージュースを飲んでしまったのでした。

実家の母にお手伝いに来てもらう(渡航)

日本と海外では妊娠月の数え方が違います。日本は妊娠1か月目からカウントするので赤ちゃんが産まれるのは妊娠10か月目ですが、海外では最初の1か月は0か月とカウントします。そのため、妊娠期間は全部で9か月となります。

私は妊娠7か月の時に早産の疑いがあり、それまで勤めていた会社を辞め、さらに実家の母に助けを求めました。

初孫が産まれる嬉しさで、母も快くはるばるシンガポールまでやってきてくれました。

空港まで迎えに行った日、久しぶりに見る母はまた年を取り、以前より少し小さく見えました。

それから出産までの期間、母と一緒に美味しいものを食べたり、おしゃべりを楽しんだり、静かで穏やかな時間を過ごしました。

出産当日は夫が分娩室に入ったため、母は家で待っていてくれました。

産まれた連絡をするとすぐに病院までやってきて、新生児室で赤ちゃんをゆっくり眺めた後、病室にやってきました。嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら病室に入ってくる母を見たような気がする私は、さっき調子に乗って飲んでしまったフローズンマンゴージュースを思い切り吐いているところでした。

急激に切れた麻酔の影響で、突然後産の痛みに襲われていたのです。そう、無痛分娩は、分娩時だけ無痛なだけで、後産は有痛だということをこのとき初めて知りました。

気が付けば産後の痛みも加わり、あっちもこっちも痛い状態で、出産の現実を目の当たりにしている最中、今度は遠くからカラカラというカートの音とともに聞こえる子猫のような鳴き声。この鳴き声こそが、人生の一大イベントをついさっき成し遂げ、「お母さんお腹空いたからなんとかしてくれへ~ん?」と訴えている我が娘だったのです。

ヘレン先生に教えてもらった通り「絶対にミルクをあげてはいけない私」は、慣れないながらもなんとかおっぱいを飲ませ、ナースに赤ちゃんを預けました。

カラカラというワゴンの音は遠ざかり、すぐにまた大きくなって戻ってきました。

ほとんど出ていないおっぱいを飲んでもすぐにお腹が空いてしまう娘は、新生児室まで空腹がもたず、廊下の途中でUターンして戻ってきていたのでした。

ナースの一人が「一度ミルクを飲ませて満腹にしてあげよう」と提案してくれるも、「絶対にミルクを飲ませてはいけない私」は頑なに拒否。

赤ちゃんを乗せたカートが新生児室と私の病室を行ったり来たり、そして、泣きじゃくる娘を楽しそうに抱っこする母。

「どうして泣き止んでくれないのだろう」と泣きじゃくる私。なぜか涙が止まらない。どうすれば良いのかわからない。もしかすると、子供を産んだことが間違いだったのではないか。じゃあ、この子はいったいどうすれば良いのか。などと、よくわからない思考に陥っている私を見て、ナースは迷わず赤ちゃんにミルクを与え、初めて満腹になり満足した赤ちゃんは無事新生児室へ。

そして、疲れがどっと出ている私も数時間の眠りにつくことが出来たのでした。

さよならお母さん

眠りから覚めても涙が止まらない私に、ドクターは「少し産後うつ」のような状態になっていると指摘し、2泊3日の入院を3泊に延長するように言いました。

朝早くから3日間母は病室に通ってくれ、病室と新生児室を行ったり来たりしている娘の後をとても楽しそうについて回っていました。

そういえばまだ娘の顔を良くみていないことに気づいた私は、次のおっぱいの時間から娘と一緒に過ごしました。

母に手伝ってもらいながら、初めてのおむつ交換やお着替えなどをさせました。一つの仕事が終わるとすぐにおっぱい。という状況に啞然とし、ひとりだったらどうしていたのだろうと途方にくれました。

3泊4日はあっという間に過ぎ、とうとう自宅に帰宅する日がやってきました。

今まで病院のスタッフがやってくれていたお仕事が全て自分の身に降りかかる自宅で、何から手を付ければ良いのかわからない状態で、まだ涙がとまらない私。

ご飯作りからおむつ交換、そして沐浴まで、母は手際よく楽しそうにやってくれました。

数日が過ぎ、おっぱいだけが担当だった私もだんだんといろいろなことができるように
なっていきました。気づけばとてもかわいくなった我が娘を抱っこする時間も増えていました。

生後1週間検診の時も、母と一緒に病院へ行きました。母は病室に一緒に入り、言葉の通じない担当のドクターに「大変お世話になりました」とあいさつをしていました。

思えば母と一緒に病室に入るなんていつ以来ぶりだったのだろう。

時が過ぎ、赤ちゃんの身の回りのお世話や食事づくり、赤ちゃんを連れての買い物等一通りのことができるようになった頃、母の帰国が決まりました。

日本に着いたとき、空港から自宅までの時間があまり遅くならないように飛行機の予約を取り、ついに母帰国の日を迎えました。

名残惜しそうにもう一度赤ちゃんを抱っこして、「次に会う頃には歩けるようになっているかもしれないね」と言って、母は朝早く家を出発しました。私は玄関で母を見送り、夫が空港までついていきました。

不安そうな私の顔を除きこみ「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた母。

部屋に戻ると、いつも母と一緒にみていた朝ドラが始まり、いきものがかりの「ありがとう」が流れていました。

シンガポールでのワンオペ育児

赤ちゃんと2人きり

母が帰国した朝、突然私は赤ちゃんと2人きりになりました。

日本のテレビといったらNHKしか映らないシンガポールで、連ドラから流れる「いきものがかり/ありがとう」を聞きながら、茫然と赤ちゃんにおっぱいをあげ、これからどうしていけば良いのだろうとポロポロと涙を流したことを鮮明に覚えています。

何が不安だったのか何に不満だったのか、今考えれば何も思い出せないのですが、確かに私は「産後うつ」だったような気がします。

一つ言えることは、私たち夫婦の周りにはその頃赤ちゃんが一人もおらず、子供を育てる状況を簡単にイメージすることができていなかったような気がします。ワーカホリック気味だった夫婦であるが故、自分の家族を持つことへの絶対的な経験不足に陥っていたのだと今ならわかるのです。

それでも、赤ちゃんは日々可愛らしさを増し、だんだんと赤ちゃん言葉でお話をするようになっていきました。そして、出産直後の浮腫んだ顔も、すっきりとしてきました。

暇さえあればベビーベッドの中を覗き込み、返事をしない赤ちゃんに独り言のように話しかけ、赤ちゃんがご機嫌な時には一緒に笑い、泣き出しそうになればハラハラドキドキしていたことを思い出します。

常夏の国で1週間髪を洗えなかった話

夫婦2人での子育てが始まったのですが、それと同時に夫の会社はどういうわけか残業が増え、海外出張も軒並み増えていきました。

時には、日曜日なのに上司に呼び出されていると言って一日中帰ってこないこともありました。

日本に帰国後精神病を患うことになる夫は、この頃から心の中に「逃げ出したい何か」を抱えていたのでしょう。今となっては仕方ないと諦められますが、あの時の私には全くもって理解不能でした。

しかし、赤ちゃんの成長は待ってくれません。日々のお世話をただただ黙々と一人で続けていくうちに、赤ちゃんとの絆が強くなり、2人の間のチームワークが感じられるようになりました。

いつしか私は、泣かなくなっていました。

日々のルーティンを着々とこなし、毎日赤ちゃんを連れて2人でスーパーへ買い物にもいけるようになりました。小さな赤ちゃんをベビーカーに入れて歩いていると、陽気なシンガポール人の店員さん達がよく声をかけてくれました。

いつもニコニコ顔の娘はあのスーパーの人気者でした。

それでも、予防接種のたびに高熱を出していた娘はそのたびにグズグズとご機嫌が悪くなり、料理をするときもトイレに行くときもずっとおんぶか抱っこをしていなければなりませんでした。

ベッドにおろすと泣く。ベッドに寝かせて首元から手を抜くと泣く。何度、この腕を肘のあたりで切り落としたいと思ったかわかりません。

こんなとき、一番の難関はお風呂でした。シンガポールの我が家のお風呂は、シャワールー一つと、バスタブにシャワーが付いたものが一つありました。

ベビーバスを卒業した後は、赤ちゃんと一緒にバスタブにお湯をためて入っていたのですが、一緒に入ると自分を洗うことができないのです。

日中ご機嫌よく過ごして夜ぐっすり眠ってくれる時であれば、娘が眠っている間に自分を洗うためのお風呂に入れますが、ご機嫌が悪く一人で放っておけない時、且つ夫が不在の時には、何日も自分を洗うことができません。

夫の海外出張が増えてしまい、赤ちゃんを一瞬でも見ていてくれる人がおらず、1週間髪を洗えないということもありました。

そんな時は、すぐに実家に帰れたらどんなに良いだろうと想像しましたが、それも叶わぬ夢でした。

ずっと独り言

夫の残業が増え、海外出張が月に1回くらいあったため、家に取り残された私たちはその間ずっと2人きりで過ごしました。

まだ口も利けない我が子と丸7日間2人きりの状態が続くと、全ての会話が片側通行となり、要するに朝から晩まで私の独り言が部屋の中で繰り広げられました。

あまりに静かな部屋の中で、ずっと独り言というのも寂しすぎるので、常に我が家のテレビにはNHKが放映されていました。詳しくは、NHKワールドプレミアという海外向けのNHKのチャンネルなのですが、日本で見られるEテレやその他のニュースやドラマなどを放映していました。

NHKと聞くと、面白くないとかあまり見ないという話を良く聞きますが、あの時NHKばかり見ていた私は、NHKの面白さに甚く感心しておりました。特にNHKのドラマやバラエティー番組は非常に面白いですし、旅番組やドキュメンタリー番組なども非常にレベルの高いものばかりだと今でも思います。

話は脱線しましたが、とにかく独りぼっちの大人と赤ちゃんの生活は、常に一人芝居の「私劇場」でありました。

あまりにも相槌を打ってもらえないと人間は少し病んでくるので、1日1回はいつものスーパーに出かけて行きました。レジのお姉さんやおばさん達と交わす会話は私にとって非常に大切なものでした。

そして忘れてはいけないのは、クリーニング屋のおばちゃんです。愛想の良い中国人のそのおばちゃんは、娘を大層可愛がってくれました。用もないのにクリーニング屋を除くと必ず中から出て来てくれて、娘を抱っこし、私と話してくれました。あのおばちゃんがいなかったら、遠い異国の地で身よりの無い母子の生活はもっと寂しいものになっていたに違いありません。

ありがとう!アンティー!(シンガポールではおばちゃんのことをアンティーといいます)

日本への帰国が決まった時、アンティーと一緒に写真を撮りました。その写真は今でも大切な宝物です。

高熱が出てひきつけ!?でも一人で何とかするしかない

ワクチンを打つたびに高熱を出していた娘。新生児の時は、毎月何らかの予防接種があるため、月1のペースで予防接種をしていたということになります。

コロナワクチンにビビっている我々大人ですが、新生児の時の予防接種って本当に多いです。赤ちゃんの小さな体にはとても負担が多いのではないかと思う今日この頃です。

シンガポールでは、日本のように新生児を一同に集めて検診するシステムはないので、皆それぞれがかかりつけの病院に行って定期健診を受け、必要な予防接種をします。

母親からの免疫は、産まれてから約半年で切れてしまい、そのあとは赤ちゃん自身の免疫でどうにかするしかなくなるので、外に出かければ風邪をひくこともあるし、なんだかわからないお熱がでることもちょこちょこでてきます。

我が娘も例にもれず、お熱を出したり、顔中ぶつぶつだらけになったりしていました。

赤ちゃんの体も大変だろうと思いますが、子育ての経験が初めての親にとっても大変です。お熱が出ればドギマギするし、少し目を離したすきにベッドから落ちれば救急病院に行ったほうが良いのかどうしようか…のように、赤ちゃんの具合が少しでも悪くなると、この子はこのまま死んでしまうのではないか。などとプチパニックを起こします。

赤ちゃんが高熱を出して、ギャン泣きしている時には早く寝てくれれば良いのにと思っても、いざ深い眠りにつくと、息をしているのか確認してしまったりもしました。今考えればばかばかしいのですが、当時はそれだけ必死だったのだと思います。

さて、娘はのちに卵アレルギーだということが発覚するのですが、シンガポールでインフルエンザのワクチンを打ってしまったことがありました。

インフルエンザワクチンには精製された卵が入っているのです。

ワクチンを打った夜から尋常ではない高熱が出始めましたが、またいつものことだろうとお風呂にも入れて、様子を見ていました。

朝になっても熱は下がらず、全身が世界地図のように蕁麻疹で覆われました。

すぐにかかりつけ医のいる病院にタクシーで向かいましたが、ずっと泣いていた娘の声がだんだんと弱弱しくなり、さらに唇が緑色に変色したかと思うと、目から光が失われていくのがわかりました。

ずっと娘の名前を呼び続けている私を見て、タクシーの運転手さんが「どうした?大丈夫か?」と何度も声をかけてくれました。クリニックの前に着くと、「お金はいいから、早く走れ!」と言い、言われるがままクリニックのロビーにたどり着きました。

娘は息をしていませんでした。

ロビーについて、息をせず唇が緑色の赤ちゃんを抱っこした私を見て、病院の中が大騒ぎになり、診察中だったドクターが診察室から飛び出してきて、ものすごい速さで点滴が用意されました。

若い女性のドクターが娘に馬乗りになり、何度も赤ちゃんの頬をたたきながら名前を呼んでいました。

「あぁ、終わってしまった。短い子育てだった」と思いました。

タクシーを降りてから息を吹き返すまでいったいどれくらいの時間が過ぎたのか、私には1時間や2時間くらいに感じているあの時間は、きっと2-3分か5分くらいの時間だったのかもしれません。

顔をたたかれて痛い痛いと、娘がやっと泣き声を上げてくれました。

大変な毎日にくじけそうな矢先に、神様が私に与えた試練は、「娘の命を一度取り上げる」ことだったのかもしれません。

この日、私は一層親になる覚悟を持つことができたのです。

母親学級で出会った戦友 子育てママに便利な施設を最大限活用する

友達がいれば一人ではない

海外での孤独なワンオペ育児に陥った私ですが、一番の味方は何といっても友達でした。

シンガポールへ移住した後、私は現地の会社で働いていたのですが、そこでできた友達は今でも親しくしています。私が出産したときに一番に娘に会いに来てくれたのも彼女達でした。

私が夫の出張中外出できず食べ物が底をつきそうになった日は、スーパーで買い物をして我が家に遊びに来てくれ、夕食を作ってくれたこともあります。

長くお風呂に入れなかった時には、私がお風呂に入るためだけに我が家に駆けつけてくれたこともありました。

子供が大好きな彼女達は、娘のことをとても可愛がってくれました。

友達の存在がなかったら、シンガポールで私たち親子の過ごした時間は全く違うものに
なっていたと思います。

出産前の母親学級で知り合った戦友

私のワンオペ育児を支えてくれた超重要人物は、民間団体が主催する母親学級でしりあった人でした。

元々人見知りのため、初対面の周りの人に自分から声をかけることなどできるタイプではない私は、やることをやったら早々に帰宅しようと決めていました。

しかし、この母親学級に一緒に参加していた夫が、「あの人に声をかけてみよう」と、同じように大きなお腹をしているその女性の旦那さんに話しかけたのです。

遠い異国で初めての出産に不安をもった2人の初めての出会いは、お互いの夫達により引き寄せられました。

話をすると、似たような仕事をしてきた彼女とは非常に気が合い、そして出産の日も2週間違いと近かったため、その場で意気投合しました。

そして、出産前には何度か一緒に食事をして、楽しい時間を過ごすことができました。

予定日間際で、お互いメールでのやり取りが多くなった頃のある日の夕方、彼女から「今日男の子が産まれました」というメールが届きました。

この日からちょうど2週間がたった時、我が家には娘が産まれました。

最初の1か月は、メールのやり取りだけでしたが、お互いの母が帰国してしまい独りぼっちになったころ、産後初めて会うことになりました。

最初は、首の座らない赤ちゃんを連れてどうしたら良いのか全くわからず、お互いの家で会うことから始めました。

赤ちゃんを寝転がしながら、お互いの悩みを共有し、育児ノイローゼにならないために週に1度はお互いの家を行き来しようと決めました。

その後、できる限り週に1度どちらかの家で会いお互いの愚痴を吐きあい、情報を交換しました。

時には2人で笑い、時には2人で泣き、時には2人とも途方に暮れた数か月でした。

週に1度の戦友と過ごすこの時間がなければ、独りぼっちの育児は非常に危険であったと今でも思っています。

その後、少しずつ外出できるようになり、この戦友と一緒に、子連れでの未知の世界にチャレンジしていくのでした。

病院の検診で教えてもらった赤ちゃん預かり所と産褥あまさん

新生児の予防接種や健康診断やらで、少なくとも月に1度は娘が産まれた病院に通いました。

担当のドクターは優しい女性の先生で、赤ちゃんの様子を見終わると必ず「困ったことや不安に思っていることはないか」など、声をかけてくれてくれました。そして、新生児を抱えた家庭が利用できるいろいろなサービスを紹介してくれたのです。今思えば、いつも一人で検診に来る私を心配してくれていたのかもしれません。

シンガポールには、赤ちゃんが産まれた後世話をしてくれる「産褥あまさん」という人がいて、産後思うように動けない時や助けが必要なママ達に代わり、食事や洗濯などの家事を手伝ってくれます。

その他にも子供を一時的に預かってくれる施設はたくさんあり、予約さえすれば一時間だけでも赤ちゃんの面倒を見てくれます。

シンガポールでは産後2-3か月から働く人もいるので、こういった有料サービスが非常に充実しているように感じます。

病院のドクターは、こういったサービスをもっと活用して、自分の時間を持ったらどうかということを常に提案してくれていましたが、私は当時働いていなかったため、勝手に自分には必要ないと思っていました。

病院であまりにも心配されるので例の戦友に相談してみたところ、一度見学に行こうということになり、赤ちゃん預かり施設を見学しに行きました。

古いビルの中にあるとても清潔な施設では、数人の女性達が赤ちゃんのお世話をしていました。年齢に応じて遊びの内容も違うため、子供の年齢別にスタッフが割り当てられているようでした。

我が子達はまだ首も座っていない新生児だったので、おむつを替えたりミルクを与えたりするだけでしたが、赤ちゃんの扱いにとても慣れているように感じました。

ついこの間自分のお腹から出てきたばかりの赤ちゃんを赤の他人に預けるという、なんとも言えない複雑な感情(この時期に感じる子供からの分離不安的な寂しさや不安な感情は、産後の母親特有の感情なのかもしれません。今となっては何がそんなに不安だったのかよく覚えていないのですが、あの時赤ちゃんを自分から離すこと非常に不安を感じました)がありましたが、とりあえず一度2人でやってみようということになり、実験的に2人の赤ちゃんを同じ時間に預けてみたのです

仕事をしているわけでもなくどこかへ行くわけでもなかったため、子供達を施設に預けた後カフェに行き、数か月ぶりにゆったりとした時間を過ごすはずだったのですが、「子供達は今どうしているのだろう。母を探して泣いているのではないか。おむつは濡れていないか」など、会話は子供のことばかり。

やっと契約の2時間が経ち迎えに行ってみると、我が子たちは意外にもミルクをたらふく飲んで気持ち良さそうに眠っていました。ヒジャブを被った可愛らしいお姉さんからの、「2人ともとても良い子にしていましたよ。」という心優しい言葉で、この日は終了しました。

2時間しか離れていないのに1か月ぶりに再会した親子のような感覚で我が子を迎え、預ける前よりも愛しくなった娘と2人、また頑張ろうと思うことができました。

この日から、子育てに煮詰まった時や美容院に行きたいときにこの施設を利用するようになったのです。

Baby Yoga

子供を預けることに成功し、味を占めた戦友と私の2人は、他にも何か面白いことはないかと探し始めました。

ベビーヨガは赤ちゃんと一緒に参加でき、何といっても産後で体型が崩れている自分自身の良い運動にもなりました。

ヨガの先生にも同じ月齢の赤ちゃんがいて、いつも一緒に運動を楽しみました。レッスンが終るといつも「ミルクタイム」をとり、みんなで一斉に赤ちゃんへの栄養補給をしながら、最近の様子などの情報交換をして楽しみました。

ベビーヨガの良いところは、自分もヨガを楽しむことができるのですが、ヨガのポーズの中に上手に赤ちゃんを取り入れていくところです。

まだ首が座っていない頃は、赤ちゃんを寝転がしたまま母だけがポーズをとったり、ポーズの途中で「いないいないばあっ!」のように顔を近づけたり、赤ちゃんを抱っこしてポーズを取ったりします。

もう少し赤ちゃんが大きくなってずり這いをするころになると、赤ちゃん自身の筋肉を鍛えるために障害物を乗り越えさせたり、両足を使って地面を蹴らせたりと赤ちゃん自身も参加できるようになっていきます。

ベビーヨガは、今までただただ面倒を見るだけだった赤ちゃんと一緒に運動をすることで、より一層子供との絆が深まっていく、とても良い経験となりました。

週に一度はプレイパークへ

週に1度は戦友と会う約束も、だんだんと家の中では収まらないようになっていきました。

時が経ち、今まで寝転がしておけばよかった我が子たちもすくすくと成長し、ハイハイする時期になったのです。

一旦自分が自由に動き回れることを知った我が子たちは、もはや部屋の中やベビーカーの中でじっとしていることはできなくなりました。

次に私たちが興味をもったのは、「プレイパーク」でした。

シンガポールには、ショッピングセンターの中に小さな子供のためのプレイパークを備えているところがいくつかありました。

どこにぶつかっても痛くないように四方八方がスポンジマットで覆われているので、ケガをする心配もないですし、いつも清潔に保たれていました。とても広いプレイパークは、ハイハイ時期の赤ちゃんにはとても良いスペースでした。

週に1度の戦友との会合は、あちこちのプレイパーク巡りへと化していきました。

子供達がハイハイを始め、歩くことが出来るようになると、私にも戦友に新たな友達が出来、行動範囲はこれまででは考えられないほど広くなっていきました。

娘の親としてだんだんと自信をつけてきたころ、出産直後の涙の事はもう頭の片隅にすらありませんでした。

私と娘はこうして親子になっていったのだと、今懐かしく思い出されます。

赤ちゃん連れの外出inシンガポール

日本へ一時帰国

4月に娘が産まれ3か月が経った7月、日本へ一時帰国することが決まりました。

一時帰国する時期は夏でなければならなかったこと(シンガポールは季節が夏しかないので着るものが夏服しかない)と、日本の友人や親類など周りの人達に赤ちゃんを見せたかったため、この時期の帰国となりました。

生後たった3か月の赤ちゃんを飛行機に乗せて大丈夫なのだろうかといろいろなことを心配しましたが、むしろ寝たきりの赤ちゃんが一番楽に飛行機移動ができると思います。

まず悩ましいのは、離陸着陸時に耳が詰まってしまうことです。特に着陸時は大人でも耳が痛くなることがありますが、それは赤ちゃんも同じです。

時折、少し大きくなった幼児が飛行機の中で号泣しているのをみかけますが、耳が痛くて泣いている可能性があります。

産まれたばかりの赤ちゃんでも耳は詰まるらしいのですが、耳抜きなど難しいことはできないので、離陸時と着陸時にミルクかおっぱいを飲ませれば大丈夫です。ごっくんすることで耳のつまりが取れるはずです。

私は一人きりで飛行機に乗り日本へ向かったのですが、一番心配だったのは機内でのトイレです。赤ちゃんが寝ていればバシネット(赤ちゃんを寝かせておくためのかご。予約時にリクエストしておくとスクリーン前の席に設置してくれます)に寝かせておけるのですが、不安なのは赤ちゃんが起きている場合で、自分がトイレに行きたいときです。

出発前に、赤ちゃんを抱っこ紐に入れたままトイレに入る方法を練習したり、トイレの中にベビーベッドが設置されているのか心配したりしていましたが、いざ搭乗してみると何の心配もいらなかったことが分かりました。

抱っこ紐に赤ちゃんを抱えてトイレに並んでいると、優しいキャビンアテンダントさんがすぐに気づいてくれ、「抱っこしていましょうか?」と声をかけてくれるのです。

キャビンアテンダントさんのこういった優しさは、赤ちゃんが泣き止まないときや食事のときなどにも発揮され、不安でいっぱいだった機内は家で一人ぼっちに慣れている私としてはまるで天国のようでした。

空港内でも同じです。赤ちゃんを抱えたまま大きなスーツケースを転がしていると、空港のスタッフが駆け寄ってきてくれ、必要な場所まで運んでくれました。

いろいろな人達の助けをかりてとうとう日本に到着し2年ぶりに帰った実家には、娘のおじいちゃんやおばあちゃん等、たくさんの温かい手がありました。

ここまで一人でがむしゃらに頑張ってきた私でしたが、この日本への帰国の時に、子育てとは本来このように多くの人の手を借りて成り立つものなのではないかと初めて気づかされました。

シンガポールから海外旅行へ

日本からタイやオーストラリアに旅行するとなると、距離も遠いし旅行代金も高額になりますが、シンガポールから出発すれば日本でいうところの国内線レベルの距離や価格で海外旅行ができてしまうのです。

すでに日本へ本帰国する予定がたっていた我が家では、今のうちに海外旅行をしておいた方が良いのではないかということになり、夫も含めた3人で2度の海外旅行に行きました。

娘が10か月の頃は、オーストラリアのパースへ行きました。まだ歩けない頃だったのでどこへ行くにもベビーカーが手放せず、食事も離乳食とおっぱいとミルクという状態でした。
荷物が多く大変でしたが、家族3人で過ごした貴重な時間でした。

オーストラリアの乾燥地帯であるパースでは、太陽の日差しが痛いほど照り付けており、ベビーカーにはいつも日よけのための布を巻いて移動しました。

その頃からおしゃべりだった娘は、行く先々で陽気なオージー達に声を掛けられ、旅行中ずっとご機嫌でした。

ホテルの部屋ではベビーコットを用意してもらい、起きている間はベビーコットの柵の中で遊んでいました。

日本への帰国直前の1歳8か月頃には、2度目の海外旅行であるタイのバンコクに行きました。この頃には自分で歩けるようになっており、ほぼ普通食で過ごせるようになっていたので、前回の旅行よりも身軽でした。

バンコク市内で、電車に乗ったりトゥクトゥクという現地のタクシーに乗ったり、とても楽しい家族の思い出となりました。

上げ膳据え膳だった旅行から帰宅すると、また一人ぼっちの育児に戻りました。旅行の最終日は寂しくて涙がでるほどだったことを今でも鮮明に覚えています。

ベビースイミングで入賞した話

日本にもベビースイミングがあるのかどうかわかりませんが、シンガポールには浮き輪を使って赤ちゃんを泳がせるベビースイミングが存在します。

まだ首がグラグラしていても大丈夫だというそのベビースイミングに興味を持った私と戦友は、早速一番近くにある店舗に子供達を連れて見学に出かけました。

プールというより浴槽のような桶に入った赤ちゃんは、皆首に浮き輪を装着しており、水の中で手足をパタパタと動かしていました。

聞けば、水泳は全身運動であるから、まだハイハイもせず歩くこともできない赤ちゃんたちの筋肉を鍛える良い運動になるということでした。

それにしても、首に浮き輪を付けることが少し気になりましたが、それは問題ないとのことだったので、早速プールに入れてみることにしたのです。

戦友の息子君は、あまりお気に召さなかったようで、プールにぷかぷか浮きながら泣きじゃくっていました。今考えれば、きっと首の浮き輪が嫌だったのだろうと思います。

ところが我が娘は、年中真夏で暑いシンガポールでプールに入れたことがよほど気に行ったのか、プールの中で始終ニコニコしておりました。まるでテルテル坊主のように首に浮き輪を巻き付けられ、首から下は水の中で手足を自由にパタパタ動かしながら器用に動きたい方へ泳いでいくのです。

陸の上ではハイハイもできず不自由な我が娘が、水の中では自由に移動している姿を見て、すぐにそのスイミングクラブに通わせることを決意しました。

ご機嫌にスイミングを楽しむ娘を、一度だけコンテストに出したことがありました。

たくさんの赤ちゃんがいつもより大きめのプールの中で首に浮き輪を付けられてパシャパシャと泳ぐ姿はとてもかわいらしく楽しいイベントでした。

娘は満面の笑みで高得点を記録し、難なく予選通過。上位に入賞しておりました。

このコンテストには、以前の同僚が一緒に参加してくれました。一日中シンガポール人のママ達の中で過ごしたとても賑やかな一日でした。

シンガポール社会での子育て

<電車やバスでお出かけ・レストランに行っても大丈夫>

日本に帰国してから驚いたことが1つあります。

どんなママ達も、「人に迷惑をかけないよう周囲の人のことを過剰に心配していること」です。

シンガポールでは、赤ちゃんの泣き声を聞いて「うるさい」と言ってくる人は全くおらず、誰も嫌な顔一つしません。それどころか、電車の中でご機嫌斜めの赤ちゃんが泣きじゃくっていれば、近くにいる人達があやしてくれたり、ニコッと笑って話しかけてきたり、時には抱っこしてくれたりします。

これは、子育てを経験したおじさんやおばさんだけにとどまらず、若いお兄さんやお姉さんでもすぐに席を代わってくれたり、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたりします。

「赤ちゃんは泣くもの」だし、「小さな子供は騒ぐもの」だということを、全ての大人が把握しているのです。

しかし、日本に帰国してからというもの周りのママ達は周囲の様子に始終気を使い、周りの大人達も「子供は親が静かにさせるもの」だと理解しているように感じました。

帰国してから娘を連れて初めて新宿に行った時のことです。忘れもしない南口の外に続く長いエスカレーターに娘を抱っこして乗っていると、後ろから走ってきた男性に突き飛ばされたのです。ぶつかったのではありません。「邪魔だ!」と言って明らかに突き飛ばしてきたのです。

幸い私の友人が私の下の段に乗って私の方を向いてしゃべっていたので、その男性に突き飛ばされた私と娘を下から支えることができました。

長いエスカレーターのまだ上の方にいた私と娘ですが、その友人がいなければ大事故になっていただろうと思います。

男性は、その後走り去っていきましたが、その男性にとって「邪魔」な親子を突き飛ばしたことは決して悪いことだとは感じていなかったのではないかと推測します。

なぜなら、その男性にとっては男性の進路を妨害した我々が悪いと感じているからです。

この日から、私は日本では周囲の人に気を付けて子育てしなければいけないということを初めて理解しました。

産まれたばかりの我が子をほぼワンオペで育てた2年間でしたが、この時期の子育てが日本であったならどうなっていたのだろうと、考えることがあります。

日本にいればすぐに実家を頼ることもできたでしょうし、友人達もたくさんいます。

しかし、社会の中ではどうだったのだろうと考えてしまうのです。

遠い異国の地で「孤独」からスタートした子育ては、見ず知らずの社会に暮らす温かい手によって助けられました。仲良くなったクリーニング屋のおばちゃんやスーパーの店員さん達。困ったときに手を差し伸べてくれた元同僚達。そして、苦楽を共にした戦友。街中で優しく声をかけてくれた心優しい人達。

孤独だったからこそ、社会とのつながりがみるみる広がっていったのです。

もうすぐ娘は12歳。親がやってあげなければならないことは年々減り、なんでも自分でできるようになりました。

遠い昔、毎日を必死で過ごしたあの頃のことが、今では懐かしい思い出に変わりました。

ベビーカーのキシキシときしむ音、ムンとする湿気を帯びた温かい空気、南国の甘い花の匂い…思い出せばすぐに手が届きそうなのに、、、もう二度と戻らない愛しい日々です。

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